とんでもない。とんでもない。
は荷物を纏めて屋敷を飛び出した。
こんな、まるでB級オカルト映画の舞台のようなところになんていつまでもいられない。
「すみませんがこの契約、無かったことにしてください」
という言葉に対し、局長から返されたのは「そうか。ではおさらばだ、。二度会うことはないな」という素っ気無いものだった。
でも、それでも構わない。
この世にはにも考えもつかないことが存在するのだということは理解できた。
だが、それを受け入れられるかどうかは別の話だ。
今は一刻もはやくこの異常な場所から逃げ出したかった。
自分の信じる日常へ帰れるのなら、好条件の職を蹴ったって構わない。無職になったって構うものか。

とりあえず一夜の宿を求めて、今夜一晩だけ泊めてくれ、と友人に電話をかけた。
すると、なんという幸運だろう!宿どころか、自分の彼が勤めている小さな会社に、かけあってくれるという話までしてくれたのだ!
これはツイている。

バスに乗り込み、小さな旅行鞄を抱えて、昨日までのことは全て忘れようと思った。
こんなこと、誰かに話したって、精神的に危ないひとだと思われて終わりだ。一生自分の胸にしまっておこう。



「久し振りね、!元気だった?」



彼女…ベスの声を聞いて、心の底からほっとした。数日ぶりに出会えたまともな人間だ。
抱擁を交わし、微笑み合って、久し振りの再開を喜ぶ。



「そう、紹介するわ。アーサーよ」

「はじめまして」

「ベスの恋人2日目のアーサーだ。宜しく」



にっこりと笑った彼もまた人の良さそうな感じだった。ああ本当に良かった。これが正常な世界なのだ。

ベスの家で美味しいご飯をごちそうになって、「明日、会社の上司に掛け合ってあげるよ」というアーサーの言葉に感激し、かたい握手を交わした。
あのお屋敷のベッドよりは少しだけ固いベッドで横になって、やっとあれは一時の悪夢だと思えてきた。
心地よい闇の中、目を瞑る。









そして、耳をつんざくような銃撃の音で、目が覚めた。








毛布を蹴って、飛び起きる。
一体なに?何が起こってるの?
ばん、ばん、ともう2発、とんでもなく大きな音とガラスの割れる音がして建物が揺れた。
ぐらり、と身体のバランスを崩し、床へべしゃりと転んでしまう。

震える脚を引き摺って、部屋を出た。
(何が…)
スイッチをかちかちと押したが、部屋の電気は付かない。
部屋履きの底が、ガラスを踏みつけてじゃりと音を立てた。
手探りで廊下を歩く。階下で人の声が聞こえる。ああよかった、アーサーの声だ。ベスは無事なのだろうか。

出来うる限り急いで階段を下りると、リビングに立つアーサーが見えた。


「アーサ、大丈…」


言葉は最後まで外に出ることはなかった。
突然喉元が締め付けられて、ひゅうっと息が鳴った。

一瞬の出来事で、何が起こったのか把握するのに時間がかかった。
後ろから、腕で首を絞められている。ちかちかする目で見上げると、そこに居たのはあのアーサーだった。
なんで。
顔を歪めながらを羽交い絞めにするアーサーには、にこやかなあの青年の面影なんてひとつも残っていなかった。
それ以上に、アーサーの口元から見える、鋭すぎる、この牙。
ああ神様、一体なぜわたしだけがこんな目に。



「動くなよ、この女の命が無いぞ」



アーサーは、前を見据えてそんなことを言った。いったい、誰に話しているの。
ゆっくりと視線を向けると、そこには…

(あ…)

赤い外套。日の光などないというのに、その目を覆う丸いサングラス。ひやりと避ける口元に並ぶ牙。
信じられないくらい大きな黒い銃をこちらに向けているのは、あの、オカルト屋敷で見た、地面から生えてきた男だった。


「おや」


彼はこちらを認めて、面白そうに口元を歪める。

「乳臭い餓鬼の匂いがすると思ったら…どこかで見た顔だ」

低くて、こんな状況でなければ、そしてこんな台詞でなければどきどきしてしまいそうな声でそう言うと、彼はゆっくりと息を吐いた。



「あ、あな、た」

「喋るな!」



ぐい、と更に強く首を絞められて、気が遠くなった。ぼんやりと霞む頭で、それでもは言葉を続ける。「ベス、は」「逃がしちまったよ…クソ。だがいい。あの男を殺してすぐに追いかけるさ」凶悪すぎる顔で、アーサーが言った。



「こんな時に他人の心配とは震えるほど美しい友情だ。あの女はお前を捨てて逃げたというのに」



目の前の赤いコートの男が笑う。「銃を捨てろ!」とアーサーが叫ぶが、それを聞き入れる様子もない。

ああ、何がなんだか分からないけれど、ここでわたしは殺されるんだろうか。思えば、あんまり幸せではない人生だった。早くに親を亡くして、一生懸命尽くしてきた会社も潰れて、新しい職場はオカルトで、そこを抜け出した筈なのにこんな目にあって。

だんだんと、意識が薄れていく。
何かを叫ぶアーサーの声も、周囲の音もだんだんと遠くなっていく。
その中で、低くて甘いような声ばかりが頭に響いた。




「やれ、婦警」




直後、ぱきゅんという音がして身体が自由になり、はそのまま意識を失った。








back///next