それから、特に変わりなく…と言ったらおかしいが、そのままの生活が2週間程続いた。
バージルは相変わらず優しくて、口から砂を吐きそうになるような甘い台詞を惜しげもなく連発する。
時々皮肉だって言うけれど、それも愛がこもっているから別に良い。
腕枕は心地良いし、朝一番にバージルの顔を見られるのは嬉しい。
夢にまで見た生活だ。


「しあわせだ…」


ため息とともに、そんな言葉も自然に出てしまう。
そう、幸せなのだ。望んだ全てがここにあった。
今では、あの皮肉屋で嫌味で我儘で意地悪だったバージルの面影すら、の頭から消えようとしている。
優しくて甘いバージルだけで頭がいっぱいだ。

バージルは今日も書斎にこもって何かを読みふけっている。
そういう時、邪魔すると嫌な顔をされるから書斎へは入っていかない。

今何時ころなのだろうと腕時計を確認しようとして、思い出す。
そういえば、時計の針が止まってしまっていた。
後で換えにいかなきゃな、と思いつつ、この館から離れるのが惜しくて先延ばしにしてしまっている。
買出しも何もかも、何故かバージルが一手に引き受けてくれているから、は外に出る必要が無い。
事実、この2週間、はずっと家に篭もりっぱなしだった。


「たまには外に出ないとね…」


さすがにこうしてだらけてばかりはいられない。
ごろごろと運動もしないまま過ごして、たるんだ体型になるのは勘弁したいところだ。
はすぐさま書斎へ向かい、遠慮がちにその扉を叩いた。
中からは何の返答もない。気配も無い。
だが、確実のバージルはその中にいるのだろう。


「バージル、いるよね。あのさ、ちょっと時計の電池が無くなっちゃったみたいだから、換えてもらってくるね」


返事は無い。
本に没頭しているのだろう。
そう解釈して返答を聞かずに踵を返すの腕が、物凄い力で引っ張られた。
身体を反転させられて、目の前に広がるのは一面の青。
数秒遅れて、バージルに抱きしめられたのだということに気付いた。


「丁度、街へ出る。俺が代わりに換えてくるから、お前はここにいろ」

「や、でも悪いし…」

「ここに、いろ」


穏やかな声が上から降ってくる。
頭を撫でる手に、思わず目を瞑った。
触れた手から体温が流れてくる。じんわりと広がった温かさがの思考を奪う。

そうだね、そうしよう。時計なんてどうでもいい。バージルに任せて、家にいよう。

じゃあお願いね、という従順さに満足したのか、頭のてっぺんに落ちてきたキスはどこまでも優しかったけれど。
何か、気味の悪いざわめくような不安が胸の中に広がった。

















言い知れぬ不安感とむず痒いような違和感を胸に抱えながらも、また幾日かが過ぎた。
疑問や不安は少しずつ降り積もって次第に嵩を増していく。

ねえ、なんだかすごく不安なの。理由はわからないけれど、大事な何かを忘れている気がする。
バージルの腕の中で呟くと、柔らかな声が降ってくる。
「何も不安に思うことなどない。お前はただ、俺のことだけを考えていろ」と。
その後に静かな口付けが与えられると、先程まで胸の中で燻っていた不安が、溶けるように消えてしまう。

不安が消えて、また幾日かが経つと同じ不安と違和感が積もってくる。その繰り返しだった。









バージルに預けた時計は、まだ返ってこない。
電池を換えるだけで済むのだから、どう考えたってこんなにかかる筈がない。
気付けば、屋敷にいくつかあった筈の時計はひとつも無くなってしまっていた。
これでは時間を確認しようがない。
バージルにそう訴えると、「あの腕時計は壊れてしまっていて直せないそうだ。また新しいものを買ってやる」と言われた。

窓から入る日差しが気持ちいい。
午後なのか午前なのかよく分からない時間帯。
はバージルの入れてくれた甘いコーヒーを飲みながら、ほう、と息をついた。


「今日も良い天気だね」
「ああ」
「明日もきっと良い天気かな」
「そうだな」


他愛のない話にも、きちんと返事を返してくれる。
でも、どうしても降り積もる雪みたいに、違和感は胸に蓄積されていく。
自分が惚れた男は、こんなに優しい男だっただろうか。
愛しいものや好きなものをこんなに簡単に認めるような男だっただろうか。
それはそれで、にとってはとても好ましいことではあるけれども、バージルという男は本当にそういう人間だっただろうか。

10話しかけても、せいぜい返ってくるのは1程度。
5回の質問のうち、1回相槌を打ってもらえれば上出来。
の知っているバージルは、以前そういう男だった。
返ってきても、それは嫌味だったり皮肉だったり。
まともな返事なんて期待しない方が良い。
でも、の言葉を煩いと遮ることはしなかった。


「雨、全然降らないね」


くる日もくる日も同じ天気。昨日も今日も、そして明日も。
まるで世界が止まってしまったみたいだ。


「雨が降ってほしいのか」
「んー、そういうわけじゃないけど」
「ではなんだ。お前は晴れの日が好きだと言っていただろう」


言われて、そういえばそんなことを伝えたことがあったかもしれないと思い出す。
晴れの日はなんだか嬉しくなるし、洗濯物はよく渇くし。


「そんなこと、よく覚えてるね」
「お前のことならば、何でも」


バージルは時々、なんでもないような顔で、こっちが恥ずかしくなってしまう事を平気で口にする。


「でも、たまには雨も降って欲しいよ」
「そうか」


バージルが薄く微笑んで、こちらに手を伸ばす。
ではきっと明日は雨が降る、と嫌に確信めいた言葉にも笑って答える。
天気予報も晴れだって言ってるし、雲だってひとつもないよ。だから明日もきっと晴れだよ、と。




そうして、その次の日はしとしとと雨が降っていた。




















胸につもった違和感は、もはやの心には収まりきらない程になっていた。
何が不満というわけではない。
むしろ満ち足りている。こんなに満ち足りた生活があって良いのかと思うくらいに。
でも、その違和感と不安の正体が知りたくて、バージルが出掛けた後に、は書斎へと入り込んだ。
あの日、いつか自分が開いたと思った、古く重い装丁の本をもう一度開くために。

書斎の中は綺麗に整頓されていて、バージルの几帳面さを現しているかのようだった。
だが、書斎の机の上に無造作に置いてある本。


(あれだ)


ほんの短い間しか見ていなかったが、その装丁は確かにあの時開いたもの。
思えば、この本を開いた瞬間に意識がとんで、気付いたらバージルの腕の中だった。
変だとずっと前から感じていた筈なのに、どうしてすぐにこの本を確認しなかったのか。
するりと、記憶から抜け出たようにその存在すら忘れてしまっていた。
不思議でならないが、たぶん心のどこかで、あの優しいバージルとずっと一緒にいたいという思いがあったのだろう。

バージルの書斎にある本だ。
何か危ない呪いやら魔力やらが秘められている本があったっておかしくない。
だって、悪魔がこの世にいるくらいだから。

この、にしてみれば幸せ過ぎる日常が果たして真実であるのか、それとも単なる虚構であるのか。
いつかの日のように、はその古い装丁の表紙に手を伸ばす。







唐突に後ろから響いたのは、聞きなれた低い声。
驚いて振り向くと、そこには出掛けたはずの青いコート。


「いつ、帰ってきたの」


先程まで気配すらしなかった。これも悪魔のなせる業なのか、それとも何か別の。
蒼い目はじっとを見つめている。
深くて先が見えない湖の底のようだ。


「何が、不満なんだ」


質問には答えず、バージルはこちらへ近付いてきて、そっとの指をすくった。
男に比べれば、随分と細く感じる女である自分の指。
指を絡めたまま、バージルはそれをゆっくりと口元へと運んだ。
その動きを直視できなくて、ふい、と視線をそらす。

指先に触れる唇は、温かい。


「何が欲しい」
「欲しいものなんて、別に…」
「ならば、何が不満なんだ?」


バージルは同じ問いを投げかける。
何が不満か、なんて聞かれても困る。本当に、不満なんて無い。
ただ、不安なのだ。


「ここには、お前の望む全てがあるだろう」
   それはそうだ。
「俺はお前を愛しているし」
   それだって、もう十二分に感じられる。
「全てがお前の思い通りになる」



「一体何が不満なんだ。お前の望むのならば、全て叶えてやると言っているのに。
忘れてしまえば良いだろう。真実も、虚構も、夢も、現実も。」



バージルの赤い舌が、指先を濡らしていく。
は唐突に理解した。まるで霧が晴れていくかのようだ。


ああ、そうか。ここは。
全てが自分の望みどおりになる世界。
甘いお菓子を与えて閉じ込める、夢の国だったのか。

誰しもが望む満たされた世界。
全てが自分の思い通りになる夢があったとして、誰がその夢から現実へ戻りたいと思うだろうか。
この優しい顔をした男は、の望みを知っている。
そして、その望みが到底叶えられないものであろうということも、知っているのだろう。
この世界は、が望んだ夢と虚構。
目の前に居る『何か』が作ったお菓子の家で、危険な罠だ。

優しいバージル。
わたしの言葉を聞いてくれるバージル。
その温かい腕を与え、優しく髪を撫でてくれる悪魔。


「バージルは、さ」


はこちらを見つめてくる、銀髪で蒼い目をした『何か』にむかって語りかけた。



我儘で俺様で、どうしようもなく意地悪でさ。
でも、わたしの作る料理はいつだって残さず食べてくれるし
返事なんてしないけど、知らん顔してちゃんと話も聞いてくれてた。
書斎に入ったり、勝手に本を読むとすっごく怒られたけど
それだって、危ないものがあるからって、心配してくれてたんだと思うんだ。
あのひとって不器用で、ちゃんと自分の言いたいこととか好きなものとか、真っ直ぐ言えないんだけど、でも
たまに見せる優しさが、ほんとはとっても心地よかった。

それを本人に言ったことなんてなかったけど。


「だからさ」


甘くてとろける、病み付きになりそうな偽者のお菓子より、ちょっと苦い飴玉みたいな現実の方が良いんだ。
ちょっとどころか、顔をしかめて吐き出しそうなほど苦かったりするけれど。

は絡めていた指先を解いて、卓上の重厚な本に向かって手を伸ばす。
バージルとそっくりな『何か』は、もうの行動を止めようとはしなかった。


「そうか」


一言、またあの優しい声がそう言って。

はゆっくりと、その表紙を開いた。