誰かに頭を撫でられている感覚に目を覚ますと、そこには見慣れない天井。
一体何が起こったのだろう。
バージルと喧嘩して書斎にこもって、お菓子の本を読んでて、上から重い本が落ちてきて、それから…。
どうなったんだっけ。
今、自分は暖かなベッドの中だ。
とても気持ちが良い。もしかしたら、何もかも夢だったのかもしれない。
バージルと喧嘩したことも。
緩やかな眠気が心地良い。頭を撫でてくる手も心地良い。
何もかもが心地良くて、はそのまま目を閉じた。
「まだ眠るのか」
「うん、もうちょっと…」
「そうか」
耳元で声が響く。の一番好きな声だ。
低く掠れていて、きっと彼も眠いのだろう。
身体に巻きつく腕がすべらかで、をもっと深い眠りへと誘う。
巻きつく腕が…。
腕が。
「!!!」
はまるでバネ仕掛けの玩具のように飛び上がって身体を起こした。
ぎぎぎ、と音がしそうな程にぎこちなく首を回して、腕の持ち主の顔を見る。
銀髪と蒼い目。いっそ悪魔的なほどに(実際悪魔だけれど)整った人間の顔。それは…
「ババ、バ、バ、バ…」
「…?」
バージル。
自分が想いを寄せている、この世で最も理不尽かつ我儘な悪魔。
そのバージルがどうしてここに居るのだ。
いや、別に居ることは良い。なぜ、と同じベッドの中に入っているのか。
「な、な…」
改めて回りを見渡すと、ここはの部屋ではなくバージルの部屋。
ではなぜ、はバージルのベッドにいたのか。
先程までの柔らかく心地よい気分など吹っ飛んでしまっていた。
「どうした、」
「!!」
目を細めて、バージルが指先での頬を撫でた。
まさか、そんなまさか。
バージルのその顔といったら、がこれまで見たことがない位穏やかで、優しい顔だった。
一体あの鉄仮面のどこにそんな表情が隠れていたのだろう。
「な、あの、え、ちょ、」
「少し落ち着け。…風邪をひいても知らんぞ」
バージルがまた、まるで恋人に語りかけるような声色でもってに接する。
風邪をひいても、というフレーズに何かひっかかって自分のおかれた状況を再確認して、は卒倒しそうになった。
人生の中で、これほど素早く動いたことなどあっただろうか、というような速さでシーツに潜り込む。
先程触れた腕がすべらかで気持ちが良いと感じたのは、この所為だったのだ。
つまり。
「な、なんで裸…!」
も、そして全部は見ていないけれど、たぶんバージルも。
これが落ち着いてなどいられない。一体どうしてこんなことに。
何度目かの疑問が頭の中をぐるぐると回り、は混乱の渦の中にいた。
「何を、今更」
バージルの腕がまたしても腰に回り、は「ぎょえっ」と色気の無い悲鳴を上げて身体を痙攣させた。
恥ずかしさと混乱に、バージルの方に背を向けると、いかにも脱ぎ捨てられた、といった青いコートが目に入った。
見れば、扉の方からベッドに向かって、何かの道しるべのように点々と衣服が脱ぎ捨てられている。
それがあまりにも生々しくて、体中の血液が一気に沸騰する。
そんな馬鹿な。
だって記憶に無い。
「耳が赤いぞ」
悪戯っぽく言う声と、耳に感じた熱っぽい舌の感触に、の情けない叫び声が響き渡った。
「病気?」
リビングでバージルが淹れた(信じられない!)熱くて甘いコーヒーを飲み、とりあえず気持ちが落ち着いたの第一声。
バージルはの隣に座って、同じくコーヒーを飲みながら新聞なんて読んでくれている。
「お前がか?」
「いや、バージルが」
飛んでくる皮肉は相変わらずだ。
だが、決定的に違うものがある。
どんな皮肉にも、どこか暖かい慈しみのようなものが感じられる。
考えられないことだ。
いや、考えれば考えるほど、それはの望んでいたものなのだけれども、おかしい。
そう思ってしまう自分がちょっと悲しい。
「じゃあ夢だ。そうに違いない」
そうだ夢なのだ。でなければ、こんなにも都合の良い話があるわけがないのだ。
一人頷きながらコーヒーカップを握り締める。カップから伝わってくる熱がじりじりと皮膚を焼く。
やがてその熱に我慢できなくなって、カップをテーブルに置いた。
「夢じゃないなら一体何なの。何が起こったの」
「何をそう混乱している」
熱でもあるんじゃないのか、と白い、だけどしっかりとした男の手が伸ばされる。
指が額に触れる寸前、思わず身を引いてしまった。
心臓が耳元で鳴っているような気がする。こんな風に伸べられる手をは知らない。
バージルの手が止まり、その口からは呆れたようなため息が漏れた。
「じゃあ、これがもしも夢じゃなく現実なのだとして、ね」
「…」
バージルは相変わらず、意味がわからないといった表情だ。完全に呆れている。
この時点で、既に立ち去っていてもおかしくない筈なのだ。
それなのに、呆れ顔をしながらも投げ出さずにわたしの言葉を待つバージル。ありえない。
「一体なんだって、その、あの、わたしなんか、えーと」
「抱いたのか?」
「そ、そう…」
の声はもう消えてしまいそうだった。
その行為自体の記憶なんぞ全く無いのだが、バージルの言葉が嘘だとも思えないし、何より朝のあの光景が全てを物語っている。
どうしてそんなことになっているのか皆目検討もつかないし、自分はさっきまで書斎にいた筈なのに、とか、喧嘩はどうなったのか、とか、疑問を挙げればキリが無いが。
その中で、なぜ抱いたのか、とそれを一番最初に聞いてしまったこと少し後悔した。
「抱きたかったからだ。それ以上に理由があるのか」
「はあ…」
直球過ぎる理由に、恥ずかしさで俯いた。
そりゃあそうだ。やりたかったらやる。そういう人間(悪魔)だった、彼は。
両手で持ったコーヒーカップから上る湯気を吹きながら、は思った。
「冗談だ」
「はあ?」
「好きだからだ」
お前が、と続く言葉に絶句する。
これはやっぱり夢か。いや夢に違いない。
だってだって、あのバージルが。
金魚のように口をぱくぱくさせていると、バージルの目がこちらをじい、と見ていることに気付いた。
そうして、その口元が、ふっと綻ぶ。
は顔の温度が急上昇するのを感じて、あわてて目をそらしコーヒーを一気にあおった。
「あっつ!」
瞬間、口の中と喉が焼ける感覚が広がる。あつい、痛い。
ひりひりと痛む舌が、これが現実だということを訴えてくる。
「…馬鹿が。猫舌のくせに、一気に飲んだりするからだ」
見せてみろ、と手を伸ばすバージルを思わず振り払ってしまう。
ああ、また。せっかく伸ばされた手を避けてしまったという後悔が胸を掠めた。
バージルは少し目を見開いた後、何事もなかったかのように手を下ろす。
普段ならば、ここできつく睨まれた後、嫌味のひとつでも言われても良さそうなものだが。
「…す、す、好きだったって、いつから」
「前からだ」
「だから、いつ!」
「何をそう苛立っている。最初から言っていただろう」
最初って、いつ!と食って掛かると、宥める様に頭を撫でられた。
今度は避けなかった。
あ、気持ち良い。って、そうじゃなくて。
「わたしたちさ、さっきまで喧嘩してなかったっけ」
「俺はしていたつもりはないが」
「ホラ、わたしが林檎焦がしてさ」
「何を言っている?」
バージルは本当に分からない、という顔でこちらを見ている。
では、あれが全て夢だったのだろうか。
が不毛な片想いをしていたのも、林檎を焦がして料理の腕を馬鹿にされて、喧嘩したのも。
そんなことがある筈が無い。だが、目の前のバージルは、随分前からわたしと恋人同士だったのだと言い張る。
そりゃあわたしだってそうなることを望んでいたけれど、現実はそう甘くはなかったし、届かぬ想いに幾度枕を濡らしたか分からない。
今日だって、一年目記念にと勝手に祝おうとして大失敗をかまして、バージルに馬鹿にされて
悔しさのあまり書斎に篭もっていたら本が頭の上に降って来て、その本を開いたら…
「そうだ、本!」
がばっ、と立ち上がって書斎へと足を向けた。
だが、その歩みを力強い腕に止められる。
後ろに回りこんだバージルの腕が、まるで拘束具か何かのようにを縛っていた。
「いい加減、わけの分からないことを言うのはよせ」
それよりも昼食にしよう、と耳元で囁かれては拒む術は無い。
ずっと手に入らなかった腕と声が、今、与えられているのだ。
肩に埋もれたバージルの頭。
銀色の髪が頬にくすぐったい。
なんだか良くわからないが、これ以上の幸せなどがあろうか。
だって、望むものがここにあるのだ。
余計な疑問など忘れて、それを受け入れれば良い。
「そんな話は、もう良いだろう?」と、耳にかかる吐息はあったかい。
くらり、と軽い眩暈がして、頭の中からまるで魔法かなにかのように、あの昼の出来事がするりと抜けていく。
焦げた林檎、酷く醜い言葉の応酬、のことを嫌うバージル、頭上に降ってきた本。
するりするりと、まるで抜き取られていくような感覚。
「そうだね…。ご飯にしようか」
腰に回された手にそっと触れて、はこれ以上ないくらいの笑みを浮かべた。
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