どう肯定的に見たって、それは嘲笑だった。
普段から遠慮無く感情、特に他者に不快感を与える類のものを隠すことをしない彼であったが、今日のそれはまた格別だ。
まるで教科書のお手本のような嘲笑。
お前に出来るものか。
世の中の侮辱という侮辱を全て纏めてオーブンで焼いたらきっとこんな表情が完成するに違いない。
いつもならば、この横暴な男の暴言にだって耐える自信がある。
なぜならば、これくらいでいちいち突っ掛かったり本気で怒ったりしていたらキリが無いからだ。
もしもが寛大な人間ではなかったとしたら、とっくの昔に脳の血管が切れて天国の人になってしまっているだろう。
だが、その日だけはどうも勝手が違った。
理由としては、随分前からあの男、バージルが不在であった故の寂しさもあるだろうし、人間の女として不可避の、月に一度のイベントの最中であったことも要因のひとつとして挙げられるだろう。
なによりも、その日はにとって大切な日だったからだ。
「バージルってさ、甘いもの好きだったりする?」
いつも通り、行き先も告げずに何処かへフラリと出掛けたその帰り。
一週間以上ぶりに会ったというのに、を空気か何かのように無視して、そのまま書斎へ直行しようとしたバージルに声をかけたことから始まった。
声をかけられたバージルは、ちら、とこちらに一瞥をくれただけで、質問には答えずに脱いだコートをの方へ投げて寄越した。
「ぶっ」
重量感のある青いコートを頭から食らって、の口から情けない声が漏れる。
コートの呪縛から逃れようとしてもがくが、コートはさらに絡みつく。
苛立つ心のままに引き上げると、バージルが鼻で笑う気配がした。
「…なに笑ってるのよ」
「酷い頭だな。まあトリ頭には丁度良い」
多少の厭味には目を瞑って、乱れきった髪を手櫛で整える。
バージルはてきぱきと、手袋を脱いでそれもこちらへ投げて寄越した。
見ると、手袋にもコートにも黒く渇いた血がこびりついている。
それが彼の血なのかそれとも他の誰かのものなのかは分からない。
ぽん、と叩くと渇いた音を立てて血が剥がれた。
「床を汚すな」
「どーせ掃除するのはわたしなんだから、ほっといて。で、甘いもの好きなの嫌いなのどっち」
またも無視して書斎へと向かおうとするバージルの腕を掴んで再度問う。
が、掴んだ手は邪険に振り解かれていかにも面倒だと言いたげな視線が返って来る。
けれどこれくらいで引き下がっていては、この屋敷に住むことは出来ない。
さらにこの我儘男に恋をし続けるだなんてもってのほか。
恋する女はタフでなければならない、なんて聞くけれど、これほどにまで精神力と体力を使う相手もいないだろう。
「どうでもいい」
バージルはそれだけ言って、今度こそ本当に書斎へと消えて行った。
どうでもいい。
つまりは、好きでもないし嫌いでもないということだ。
ただし、はっきりと嫌いだと言わなかったということは、どちらかというと好きなのだろう。
長く生活を共にして、普段負の感情を表に出すことを躊躇しない彼が、何故だかその対になる感情、ことさら好ましいものに対してはそれを表に出すことを酷く厭うということを知った。
嫌いなものは態度にも言葉にも出して拒絶するというのに、好きなものに対してはその素振りをほとんど見せない。まるで、好ましいと思っていると認めることが屈辱であると感じているかのように、その態度は頑なだ。
はそっと手帳を取り出し、日付を確認した。
バージルがその異変に気付いたのは、書斎に入ってから3時間後のことだった。
キッチンの方から、煩い音が聞こえていたのは知っていた。
が何かやっているのだろうとずっと無視していたが、もはやその異変に目を瞑ることは出来ない。
バージルはその体質上、あらゆる感覚が人間を上回っている。
筋力、持久力、視力、聴力、嗅覚…
その鋭敏が嗅覚が周囲の異変を訴えていた。
異変…ありていに言えば、何かが焦げた臭い。しかも、ちょっとやそっとの焦げ方ではないだろう。
どこか甘ったるい匂いと混じったようなそれ。キッチンから離れた位置にあるこの書斎にまで届いているとなれば、もはや屋敷全体に臭いが充満していると考えて間違いない。
読みかけの本を乱暴に閉じ、足音も高らかに書斎を出る。
そうして、キッチンの扉を開くとその臭いがさらに濃くなった。
目にしみるような気がする。
「あらー…来ちゃったのね」
「これはどういうことだ」
思い切り顔をしかめたバージルに、申し訳なさそうに頭をかく。
強烈な臭いの元凶は、小さめの鍋の中から漂っていた。
「それはなんだ」
「や、煮林檎だけど」
「お前の林檎は悪臭の撒き散らす何かを入れてあるのか」
「ちょっと焦げただけじゃん」
何がちょっとだ、と指をさして言われると返す言葉もない。
まさか、林檎が柔らかくなるのを待っている間にうっかり寝てしまい、気付いたらこんな状態だったなんて言えるわけがない。
「…何を作ろうとしていたんだ」
「アップルパイ」
バージルこめかみに手をあてた。
物凄く嫌そうな顔だ。そりゃあ嫌だろう。人間の乏しい嗅覚にさえ厳しいこの焦げ臭さだ。五感の優れた半魔にとってはもはや拷問に違いあるまい。
だがひとつ言わせて貰えるのならば、こんな焦げ臭さよりもバージルが斬り捨ててくる悪魔の返り血の方がにとってはまだ酷い。バージルはきっともう麻痺してしまっているのだろうから気にならないのかもしれないが、あの生臭いような腐ったような臭いはいつまでたっても慣れない。
その返り血のべっとりついたコートを綺麗にしているのはなのだし、他にも色々と(頼まれたわけじゃないけど)世話を焼いてやっているのだから、ちょっと林檎を焦がしたくらいでそんなに怖い顔しなくたって、と心の中でぼやいたが、それらは既になんの道理もない、自分の失敗を棚に上げた見苦しい言い訳だ。
「一体なぜ…」
「いや、それはまあ、いいじゃん」
は誤魔化すように、窓という窓を開けて回った。
それでも、しばらくこの焦げ臭さは取れそうにない。
「ちゃんと焦げは落としておくからさ、バージルは書斎に戻ってよ」
「こんな酷い臭いの中で本など読めるか」
これ以上ないほどに嫌味なため息を無視して、は鍋を洗い始める。
やり直すのは面倒だが、もう生地の準備は整っているのだ。
今更メニューを変えることなどできないし、そんなことはしたくない。
自分が意地になっていることをどこか他人事のように感じて、もバージルとは違った意味のため息を漏らした。
キッチンから流れてくる甘く美味しそうな匂いにつられ、書斎から出てくるバージル。
それが望ましい結果であったはずなのに、現実はどうだ。
いつもはこんなミスなどしないのに、なぜ今日に限って。
昨夜遅くまで、何を作ろうかと本をめくっていたことが仇になった。
見た目には出さないものの、も相当落ち込んでいた。
そこへ、まるでとどめを刺すかのようなバージルの声が飛んできた。
「たいした腕も無いくせに、そんなものを作ろうとするからだ」
それはいつもとなんら変わりない嫌味のひとつだったはずだ。
だが、常ならば在りえない筈のミスによる苛立ちも所為か、それを流すことが出来なかった。
なによ、と噛み付くようには返す。
「ちょっとそれどういう意味」
たいした腕も無い、とは聞き捨てならない。
いつも食事の支度をしているのはだ。
勿論、自分の料理がそれほど自慢できるほどのものだなんて自惚れているつもりはないけれど、そこそこ食べられるものの筈だ。
の自炊暦はそれなりに長いし、バージルだって、そりゃあ好き嫌いはあっただろうが今まで不味いだなんて言ったことはなかった。
「言葉どおりの意味だろう」
まだ、部屋には焦げくさい臭いが残っている。バージルの眉間にも皺が寄っている。
そして、の心にも、ぴしぴしと亀裂のようなものが生まれてきている。
薄いワイングラスに細いヒビが入るように。
「普段しないことを、柄にもなくしようとするからこういう事になる」
ぴしり。
「誰がそんなものを作れと言った。余計なことを」
ぴしり。
「とっととそのゴミを捨てて、掃除でもしていろ」
ぷちん、との中で何かが切れた音がした。
「馬鹿にするのもいい加減にしてよあたしだってねえ、お菓子のひとつやふたつ、簡単に作れるんだからね!」
すう、と大きく空気を吸い込んで吐き出された大音響に、驚いた小鳥が飛び立つ音がした。
そして話は冒頭へと戻る。
予定をまるきり変更したは、書斎に篭もっていた。
こうなれば、もうバージルを唸らせるようなお菓子を作って、参りましたと白旗を振らせないと気がすまない。
パイ生地は完成して冷蔵庫に眠っているが、そんなことなどどうでも良い。
アップルパイなどと、つまらない菓子にこだわっている場合ではないのだ。
バージルの書斎には、実にいろいろな書籍が眠っている。
見るからに古そうな埃を被った本もあれば、先月発売された文庫本もある。
バージルは本の虫と言っても良いほどの読書家であり、どんな種類の本でも読む。
とは言っても、そこここに置いてある比較的新しい本は、その殆どがが購入してきた本だ。
面白いから読んでみてくれ、と言って手渡すと、つまらない、くだらないとは言いながらも最後まで読んでくれるバージルの姿を見るのが好きだった。
ほんの少しでも、彼と共有できるものがあるという事実が、に言いようもない幸福感を運んでくる。
が購入してくる本(バージルに言わせれば、俗物)が、この書斎に並ぶことに関してはあまり良い顔をしていなかったが、の必死の懇願にしぶしぶながら了承してくれた。
バージルが普段読む本は、にとっては理解不能なものばかりだった。
そしてこの書斎は、を拒絶する要塞そのもの。
しかし堅牢な要塞にわずかながら自分の本を置くことで、はこの書斎に居場所を得た。
とは言っても、バージルが真剣に何か難しい本を読んでいるときに書斎に入ると怒られるから、書斎で一緒に読書、なんて時間は全くないのだけれど。
バージルに美味しいものを食べて貰おうと、暇を見ては買い集めていた料理に関する本も、そこにあった。
「あの悪魔、今に見てなさいよ…」
は一心不乱にページをめくる。
そんじょそこらにあるようなケーキでは駄目だ。
バージルの心を鷲掴みにして、自分の前に平伏して失言暴言無礼非礼への許しを請わせるような、そんな菓子。
「ひとの気持ちも知らないで、冷血漢め」
なぜ、こだわったのか。
バージルの言うとおり、普段菓子作りなどしないがどうして今日、それをしようと思ったのか。
はそっと、自分の手帳のページをめくった。
そこに、小さく書かれた『一年目』という文字。
そう、今日は丁度、がバージルと出会ってから一年目の日なのだ。
恋人、いやむしろ対等な関係にも進展していないくせに、という気持ちもある。
彼にとってはは体の良い召使いであり、友人ですら無いのだろう。
だが、一年傍にいられた。
実を結ばない片思いを続けているにとっては、それですら祝うべき行事になる。…なるはずだった。
「…ばかか、あたしは」
急に自分のしていることが虚しく思えてきて、はうつむいた。
そう、馬鹿馬鹿しい。
召使いが、どうして一年働きました記念にケーキなど作らなくてはいけないのか。
そう思ってしまってからは、まるで走馬灯のようにこれまでの思い出が頭に走った。
しかもこういう時に思い出す過去は、大抵はあまり思い出したくも無い嫌な過去だったりするものだ。
先程までの威勢はどこへやら、は沈みきった気分で本を元に戻した。
そこへ。
ごんっ!
「……!!!!」
酷く鈍い音が、自分の頭に響いた。
遅れて、物凄い痛みが頭頂部を襲う。
あまりの衝撃に、は頭を抑えて蹲った。おおお、と極めて情けない呻き声が口から漏れる。
一瞬何が起こったか分からなかったが、床に落ちた本を見て、ああこれが落ちてきて頭に当たったんだと理解する。
ごーんごーんと鐘が鳴るような鈍く重い痛みに涙が浮かんで、視界がぼやけて見える。
「ちょっとぉ…なんなのよもう」
今日は厄日だろうか。
おそらくは、バージルが読み終えてからきちんとしまわずにいた本が、落ちてきてしまったのだろう。
本人は居ないが、何故かこれすらもバージルの策略であるかのように思えた。
こんな本、燃やして捨ててやる!と心の中で毒付くが、そんなこと本当に出来る筈もない。
見ると、随分と凝った装丁の本だ。しかも分厚い。
赤茶けた色から見ても、相当古いものなのだろう。
普段ならば気にならないその中身が、今日はなぜだか気になった。
想定外だらけの日だ。
書斎の本は勝手に触るなと言いつけられているが、知ったことではない。
ふう、と本の埃を吹き飛ばして。
その重い表紙をめくって、最初のページを開いたところで、の意識はぷっつりと途切れた。
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