ふわ、と頬にかかる風を感じて目を開けると、どこかで見たことのある天井。
ああそうか、ここは自分の部屋だ。そしてここは自分のベッドだ。
コチコチと、壁掛け時計の音が鳴っている。

戻って来れたのかそうでないのか。
分からぬままに首を回すと、見慣れた銀色が椅子の上で転寝をしていた。
閉じられた瞼も銀色に縁取られていて、やっぱり綺麗だな、と思った。


「おーい」


起こすつもりなんてなく、声のボリュームを最小にして呼びかける。
だが、鋭敏な聴覚はそれをとらえて、ゆっくりと銀色の睫が上がっていった。
やがて開いた蒼い目がこちらを捕らえ、ぱち、と瞬く。

あ、こっち見た。

バージルは2、3度瞬きをして、それから見る見るうちに眉間に皺が寄っていく。
言うなれば鬼の形相。
瞬間、背筋にすっと冷たい汗が流れた気がした。


「貴様」


がたん、と椅子から立ち上がり、こちらへ歩いてくるその一歩一歩がまるで死の宣告のようだ。
は咄嗟に強く目を瞑り、ガードするように両腕を自分の前で交差した。
一発平手打ちでもお見舞いされるかと思いきや、いつまで経ってもその衝撃はやってこない。
薄っすらと目を開くと、なんともいえない表情をしたバージルがこちらを見下ろしていた。

沈黙。

どう反応して良いか分からず、はその体勢のままバージルを見上げる。
暫くして、彼の口から大きな大きなため息が漏れた。
ただし、それは今までの嫌悪や呆れからくるため息ではなく。


「あ、えー…と」


なんと言っていいやら。
とりあえず、これはあの優しいバージルもどきではなさそうだ。
眉間による深い皺も、ため息も、あのバージルもどきはしなかったことだ。

バージルは何も言わず、そのまま踵を返して部屋を出て行った。
追いかけようとベッドから降りようとするが、足が弱っているのか言うことを聞かない。
動け動けと自らの足に叱咤しているうちに、先程出て行ったバージルが戻ってきた。
その片手には、何か湯気を立てているカップ。

「あのさ、」
「そのまま一生寝ていろ」


がし、と肩を掴まれほとんど無理矢理に、起こした身体をベッドへと戻される。
サイドテーブルに乱暴に置かれたカップの中身についてはとくに触れずに、バージルはまたも足音荒く部屋を出て行った。
嵐のような彼の行動に目を丸くして、置かれたカップに手を伸ばす。
立ち上る甘酸っぱい香り。透き通った黄金色。


「ちょっと酸っぱい」


口の中に広がった甘酸っぱいレモネードの味と言ったら、ちょっと泣きそうになってしまった。



















あとから話を聞いたところによると
くだらない喧嘩をしたあと書斎に篭もったきり次の日までなんの音沙汰もなかったため一応覗いてみたら、床でだらしなくのびていた、ということらしかった。
ということは、とりあえず一晩はそのまま放置されていたことになる。
いや、それでも助けてくれたということ自体が驚くべきことなんだけれども。

その後、丸々2週間も寝たきりだったそうだ。
よくも飲まず食わずで生きていられたものだ。
まるで、呼吸以外の全ての生命活動が停止してしまったかのようだったらしい。

ただ、どんどん身体は衰弱していくし、あと一日でも目覚めるのが遅ければ腐った死体になる前にどこかへ捨てに行こうと思っていた、と言われてちょっとへこんだ。







後日、が開いた本をバージルも開いてみたが特になんの変化も起こらなかった。
も隣で見ていたが、なんの異変も起こらない。

「お前は心が弱いから、そのへんの雑魚のような魔にでも魅入られてしまったんだろう」

と馬鹿にしたように言われた。実際そうだろうから、返す言葉もありゃしない。

結局こっそり1年目おめでとう祭だって開催できなかったし、今更パイを焼こうとか、お菓子を作ってバージルを驚かせようだなんて気にもなりはしない。
いつもどおり、また甘くない毎日を送っている。




ただすこし、変わったこともある。
まずひとつめは、バージルが読書中に書斎に入っても、怒られなくなった。
むしろが一人で書斎に入ることを禁じられてしまった。
書斎で本を読むならば俺が居る時にしろ、と命令口調で言われ、口では文句を言いつつも内心ではガッツポーズだ。
それは、隣で(実際は隣なんかじゃないけど)一緒に読書、を許されたということだから。

ふたつめは、なんでか分からないけどバージルが自分が飲むついでに、わたしにもコーヒーを淹れてくれるようになったということ。
自分はお砂糖を入れたりとかするくせに、わたしに渡すのはとんでもなく苦いブラックだ。
だが、それがたまに甘酸っぱいレモネードに変わったりして、そういう時大抵バージルはこっちを見ず押し付けるように渡す。
ありがとうなんて素直にお礼を言ったら、意地っ張りで照れ屋のバージルのこと、どうせキツイ嫌味を言われるにきまってるから、わたしも当然であるかのようにそれを受け取る。


まあ何が言いたいかというと、相変わらず腕時計は狂いなく時を刻んでいるし
従僕、召使いというポジションから昇格したのは確かだってこと。







たまに、ちょっと惜しいことをしたかも、と思うことも無いわけじゃない。
あのまま、あの甘ーい夢のなか、優しくてわたしに惚れてるバージルと一緒にいたら、と。
ベタベタの砂糖漬けみたいな夢に未練が無いかといわれると、怪しいところだ。

だけど、まあそれはそれ。
今はブラックコーヒーのような彼との日常が楽しくて仕方がない。
それがいつか、まあアンジェリカのように甘くはなくとも、せめてレモネードくらいにまではなってくれる日を夢見て、未だ実らない片想い(?)は続行中である。