「ただいまー」
事務所の明かりは全て消えていて、誰も居ないことなど分かりきっているが習慣のように口にしてしまう。
は両手にいっぱいの荷物を抱え、足でドアを蹴り開けた。
祖国の両親が見ていれば、きっと今のの様子に涙を流しただろう。
慣れとは恐ろしいものだ。
荷物を適当にデスクの上に下ろし、帰る途中で買ってきたオニオンベーグルサンドを一瞥する。
何か食べなくてはと思い買ってきたはいいものの、どうにも食欲が湧かない。
さらに、あんなに好きだった料理にも気が向かなくなってしまった。
(だって、ダンテ居ないし)
ここ2、3日、ダンテは仕事だと言って出て行ったきり戻ってこない。
今までは感じたことの無かった、独りで居ることの寂しさが身にひしひしと迫ってくる。
誰かと一緒に食事することの楽しさを知ってしまった今、独りでテーブルにつく気になどなれなかった。
(だから、誰かと暮らすのって嫌だったのよ)
ペンダントを外し時計を外し、纏めていた髪も解いて自室へと向かう。
鉛のように重い足を引き摺るようにして歩いた。
シャワーを浴びるのも億劫だ。明日の朝に浴びれば良い。
部屋の前まで来て、自室のドアが少しだけ開いていることに気付いた。
朝出掛ける時に閉めていった筈なのに、なぜ。
もしかしたら泥棒でも入ったのだろうか、と警戒しながら静かに扉を開けて、中を覗き込む。
そうして目に入ってきた人物に、は小さく溜息をついた。
侵入者は赤いコートの悪魔だった。
のベッドを占拠して、規則正しい寝息を立てている。
どうして自分の部屋のベッドで寝ないのか。は呆れ顔で、惰眠を貪るダンテに近付く。
様々な表情を見せる青い目は、今は銀色に縁取られた瞼の下に隠れていた。
その表情が思った以上に子供っぽくて、気付かぬうちに頬が緩む。
「ダンテ」
聞こえるか聞こえないかぐらいの声で名前を呼んで、額にかかった銀色の前髪を分ける。
ダンテの睫が震えて、それからゆっくりと瞼が開いた。
「、か」
「ここはあなたのベッドじゃないよ」
「もう少し他に言うことあるだろ」
上半身を起こし、頭を掻きながら大きなあくびをひとつ。
ダンテは一体いつ帰ってきて、いつから此処で寝ていたのだろうか。
キッチンが綺麗に整ったままだったことを考えると、まだダンテは夕食を食べていないのだろう。
「何か作ってくる」
そう言って部屋を出ようとするが、つん、と服の端を引っ張られて立ち止まった。
「飯は要らない。それよりちょっとこっち来いよ」
導かれるままに、ベッドに腰掛けるダンテに近付く。
ダンテの手が、袖から首の後ろに回って、ぐい、と強く引き寄せられた。
咄嗟に逃げようと身を捩ったが、もう一方の手が顎にかかり固定される。
「」
唇にかかる吐息が熱い。至近距離で射抜くようにみつめられて息が止まる。
青い目が更に近付いてきて、唇が触れ合う前に、は顔を逸らした。
「わたしは、同居人、だよ」
「…知ってるさ」
ダンテの指が頬をなぞる。触れられた部分が、火を付けられたように熱く感じられるのは、単なる気のせいだろうか。
ぐ、と目を閉じると、低く笑いながらダンテはを解放した。
ダンテの手がゆっくりと離れていく。熱が遠ざかるのと同時に、胸が焼かれるような気がした。
「先に、下に行ってるよ」
「ああ。…、」
何、と振り向く事もせずに背中でダンテの言葉を待つ。
(今、彼の顔を直視することなんてできない)
「帰りが遅くなるときは、メモか何か残していけよ」
「なぜ?」
「可愛い小鳥がカゴから逃げたんじゃないかと、心配するだろ?」
頬が火のように熱くなって、早足で部屋を出た。
多分、いまダンテは嫌味な笑顔を浮かべているんだろう。
だって、あの鳥籠のような優しい腕から逃げる事が、どんどん難しくなってきているから。
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