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先日の一件以来、まるで結婚以前に戻ったかのように、幸村の態度が変わってしまった。 夫婦となってからは、かつての従者であった頃とは違い、幸村はのことを姫とは呼ばなくなり、敬称も付けず呼び捨てるようになった。丁寧に飾られていた言葉も無くなり、自分の呼称を某ではなく俺と呼ぶようになった。 けれどそれが、何事も無かったかのように、全部元に戻ってしまった。 「お早うございます、殿」 朝餉で顔を合わせた幸村は、いつも通りに柔らかい笑顔を寄越す。 一体どんな顔をして会えばいいのだと悩んでいた自分が馬鹿らしくなるほどに完璧な笑みだった。 面食らいながらも「おはよう」と返すと、「今日は少し遅かったようでございまするな」と茶を啜る。 上辺だけを見るといつもと特に変わりない会話のようだが、其処にある余所余所しさに心が沈んだ。 朝餉を終えてから、いつもならば他愛も無いお喋りをしてみたりするのだが、幸村は早々に「所用がございますので、某は先に」なんて言って出て行ってしまった。 夫らしからぬ、従者のような態度を示す幸村を見て、膳の片付けをしている侍女が「今度は何のお遊びを?」と笑い混じりに尋ねる。理由なんてとても言う気にはなれず、ただ笑って誤魔化すことしか出来なかった。 余所余所しい態度は夜になっても続いていた。 もしかしたら来ないかもしれない、と思いながら手を膝の上で握り締め、幸村を待つ。 蝋燭が随分短くなってきたころにやってきた幸村は、「待っていて下さったのですか」と言って優しく微笑んだ。 幸村がちゃんとこちらにやって来たことに安堵したが、彼は「寒かったでしょう。さあ、早くお休みくださいませ」なんて他人行儀に言って、とっとと夜着に入りそのまま眠ってしまった。 頭を撫でてくれたり、暖を取るように抱きしめてくれることも無かった。 ずしりと心が重くなる。 幸村はいつもと変わらず隣で眠っているけれど、その間に大きな壁が存在しているかのようだ。 昨夜ひとりで眠った時よりも、今のほうがずっと寒いような心地さえした。 次の日も、また次の日も、幸村の態度は変わる様子がなかった。 にこにこという笑顔はいつも通りなのだけれど、言葉や態度が余所余所しい。 昔に戻っただけ、といえばその通りなのかもしれないけれど。 もやもやと、晴れぬ気持ちを抱えながら庭を歩く。 季節は秋。幸村の元に輿入れしてから、いつのまにかもう季節が二つも過ぎていたのかと思い、時の流れの早さに心を馳せる。 ひらりと落ちる紅葉と、渇いて落ちた葉とが庭の土を隠していた。 ひたすら下を向きながら、落ち葉を踏んで歩いていると、聞き慣れた声が耳に入ってきた。 はっとして顔を上げると、向こうの池の淵で、幸村が二人の女中と共に楽しげに言葉を交わしているところだった。 女中が何か冗談を言ったようで、幸村は困ったように眉を下げながら、それでも楽しそうに笑っていた。 じわりと胸の内に暗く澱んだものが広がる。 何を話しているの、そう言って中へ入っていけばいい。幸村も女中達もそれを拒否したりはしないだろう。 でもどうしてもそうする気にはなれず、けれどこのまま幸村と彼女らが楽しそうに話をする様子を見続けることも出来なくて、元来た道を戻ろうと踵を返す。 けれど運悪く、がさり、と足元の落ち葉が鳴った。 「あら、様」 こちらを見止めた女中のひとりが声をかけてきた。 こうなれば、無視することは出来ない。 出来得る限り自然に、振り返って笑顔を作る。口の端が引き攣っていないかどうか、自信が無い。 「殿、如何された」 女中達が一礼して立ち去り、幸村がゆっくりこちらに向かって歩いてくる。 この場から逃げてしまいたい衝動に駆られたが、足は動かなかった。 「ちょっと、散歩に」 俯く視界の中に、幸村の足が入る。肩からふうわりと羽織を掛けられ、幸村の匂いに包まれた。 感じる不思議な既視感。そういえば前にもこんなことがあったような気がする。 「大分寒くなって参りました。そのような薄着では、お風邪を召しまする」 温かい幸村の羽織を握り締めながら、唇を噛む。 やはり幸村は怒っているのだろうか。駄々を捏ねて疑った自分を。 相変わらず優しい笑みを浮かべるばかりの幸村に、ほんの少しの苛立ちと、それから胸を締め付けられるような痛みを感じた。 「…わたしのこと、怒ってる?」 「いいえ」 「じゃあ、どうしてそういう態度を取るの」 「さて」 如何してでしょうな。 そう言って、幸村は庭の見事な紅葉を見遣った。 幸村の表情は穏やかだ。穏やかである、ということ以外は何も読み取ることが出来ない。 幸村の被る仮面はいつも完璧で崩れない。その裏にある素顔など、は一度だって見たことはないのかもしれない。 は紅の葉が落ちる地を、幸村は紅が降る宙を眺める。 暫しの沈黙の後、「…殿は」と幸村の口が開いた。 「夫婦となる以前は、某のことを心から信じ慕ってくださっておりましたな」 「…」 「けれど、夫婦となって後は、某を誠に信じては下さらなくなりました」 幸村の言葉に、ぐ、と喉が詰まる。 違う、と出掛かった声はまた深くへ沈んだ。 彼の言う通りだ。夫婦になってからは、これまで知らなかったこと、目に付かなかったことが気になって仕様が無くなり、不安と恐ればかりが心を支配するようになった。 けれどそれはきっと、が、幸村のことを… 「ずっと、貴女の臣下で在り続けた方が良かったのかもしれませぬな」 ざくり、と鋭い刃物で斬り付けられたかのような痛みが胸に広がる。 鼻の奥がつんと痛んだ。 「戻りましょう」 そう言って幸村が館へ向かって歩き出す。 はただただ、石のように重くなった足を動かせぬまま、羽織を握り締めてその場に立ち尽くした。 <<< >>> (090222) |