「幸村」

良く知る声が苛立ちを含んで背中にかけられたのは、幸村が親しい侍女と二、三言葉を交わした時であった。
振り返るとそこには、見るからに機嫌の悪そうな顔がひとつ。
さくら色の唇を横に引き結んでじとりと上目で睨むようにこちらを見ている娘は、ようやく十七になったばかりの幸村の妻であり、名をという。
甲斐武田の総大将が目に入れても痛くないほどに可愛がっていた姫で、幸村が頼み込んだ末に手に入れた宝だ。
奔放に駆け回っていた姫を苦心の末に捕え、念願叶って夫婦となれたのが今年の春。
今ではじゃじゃ馬姫の名残も消え、随分と武家の妻らしくなってきたと思う。

そのが、じゃじゃ馬姫と呼ばれていた幼き頃のように感情を剥き出しにして、肩を怒らせこちらを睨みつけていた。
なにやら悔しそうに唇を噛み締めているのが見え、そのようにしてはあの柔らかい唇が切れてしまう、とそんなことばかりが気に掛かる。
大切に大切に見守り、拝み倒して手に入れた姫だ、どのような小さなものでもに傷が付くのは面白くない。

あらあら、と話をしていた侍女が袖で口元を隠した。
この侍女は、幸村が幼き頃より世話になっている者のひとりだ。歳は然程変わりないが、幸村よりも随分前に身を固め、子も三人ほど設けている。不運なことについ四年程前の戦で夫を亡くし、その節には幸村も色々と便宜を図ってやった。
侍女の内、古参の者達は幸村に対し遠慮が無いが、この侍女も例に漏れず主に対し遠慮がない。これが真田の気風でもあるわけだが。


「幸村様がこのようなところで遊んでおられるから、御方様がお怒りですよ」
「そのようだ」


ぷくりと膨れるは、いつもよりも幾分か幼く見える。
一体何をそんなに怒っているのかと思いながらも、可愛い妻が自分を探してこんな奥までやってきたのかと思うと顔が緩んだ。
笑う侍女を背に、仁王のように立ちこちらを睨みすえるに向かって歩く。


、如何した」
「幸村こそ、どうしたの」
「何がだ」
「…」


の目が、背後の侍女をちらりと見た。そしてまたこちらを睨み据えて、今度は庭の方へ向く。
その様子を見て侍女が何かに勘付いたのかそそくさと居なくなる。その顔ににやり笑いがびったりと張り付いていた。
一体何だと思いながら見下ろすと、小さな妻は口を尖らせ横を向いたまま不満そうな息を吐いた。


「何か、用があったのではないのか」
「…別に」


先程までは今にも喚き散らしそうな顔をしていた癖に、今度は打って変わって悲しげな顔をする。
眉を下げて酷く落ち込んだ様子を見せるに、一体何が、と心中焦り始めた幸村の耳に小さな呟きが届いた。
「あの、あの人は、」
沈んだ声色に、が指す人物が先程の侍女だとわかり、幸村も漸くどうしてがこんな様子になったのか理解できた。
その理由が分かれば、このの沈んだ様子も悲しげな顔も、何もかもが可愛らしいものに思えてくる。
組んだ手を握ったり開いたりしながら言葉を探しあぐねるを、抱き締めてしまいたいと思う心を押し隠して、その頭を撫でてやった。

大方は暇を持て余して幸村を探していたのだろう。
この離れへは政務の息抜き(という名の逃亡)にやって来ただけで、先の侍女と此処で出会ったのも偶然だが、きっとの目には別のものに映ったに違いない。
仕事をしている筈の男が、人目の無い離れで女と二人きりで居れば、誤解のひとつもするだろう。
このまだ幼い娘は、そこに情が在るか無いかの区別まではつかぬらしい。

もう戻るぞ、と言って黙ったままのの手を引く。未だ不満そうな顔をしながらも、はするすると黙ってついてきた。








(やれやれ)

その夜、自室へ戻り部屋の中央で丸くなった布団の塊を見て苦笑した。
どうやらの機嫌はまだ治らないようだ。
いつもならば、余程幸村が遅くならない限りは一生懸命に起きていようと努力していたが、今日は布団の中央に陣取って丸くなっている。

ふ、と油についた火を消し、入ってくるなとでも言いたげなの横に体を滑り込ませた。
人の体温で暖められた布団が心地よい。
自分の体を抱え込むように丸くなったの腹に手を回し背中からふうわりと抱き締めると、ぴくりと動く気配がして、幸村は口元を緩めた。
柔らかな髪に口付けながら、、と名前を呼んでみたが返事は無い。

「眠っておるのか」

狸寝入りを決め込むに苦笑しながら、それならばそれでも良い、と帯紐に手をかける。
ほろ、と崩れるように解けた帯紐を引くと、流石のもこれ以上狸寝入りを続けるわけにはいかないと思ったのか、「やだ!」と言いながら帯を取り返そうともがいた。


「やだやだ!」
「なんだ、起きておったのか」
「触らないで!幸村には!…幸村には、」


帯紐をとっとと引き抜き夜着の外へ放り出す。は帷子の袷を握り締め更に丸くなりながら唇を引き結んでいる。


「俺には、何だ」
「幸村には…」
「…」
「ほ、ほかにたくさん女の人が居るんだから」


そっちに行けばいいじゃない。
ごく小さな声、この静寂の夜にあっても耳を澄まさねば拾えぬほど小さな声で、がそう言った。
一瞬目を見開いて、それから苦笑してしまう。
やはりは、昼間の一件のことを未だ引き摺っていたようだ。
どうやら可愛らしいこの娘は、一丁前に嫉妬してくれているらしい。
が妬いてくれるとは、珍しいこともあったものだ」
喉の奥でくつくつと笑いながら茶化すように言うと、が更に臍を曲げたのか、夜着から抜け出ようともがいた。


「妬いておるのは己ばかりと思うておったが」
「妬いてない!自分の部屋に戻る!」
「心配せずとも、だけだ」


呻りながら逃げようと暴れる小さな身体を押さえ込み、すべすべと気持ちの良い髪を撫で擦る。
まるで野に在る獣を手懐けている気分だ。
痛みを感じぬ程度に押さえつけ宥めていると、抵抗は無駄だと思ったのかの身体の力が抜けていく。


「そなた以外は目にも入らぬ」
「うそ」
「まことだ」
「た、たくさんの女の人を、だ……抱き締めて大事にするのが男の甲斐性だって」
「馬鹿なことを。一体誰が」
「皆そう言うもの…」


以外は目にも入らない。これは真実だ。
この姫は幸村の悲願だった。政や戦のことは別として、こそが幸村の中心であり、気に掛けるべきものの全てなのだ。を手に入れたのだから、幸村には他に室を置く気も側女を作る気もなかった。
掌中の珠のように大切に大切に愛でてきた姫だ。これまでも、そうしてこれからも。

ぐす、と洟をすする音が聞こえる。


「俺が、以外の女子を?」
「……」
「そなただけと、夜毎聞かせておるだろう」
「……」
「言葉ばかりでは、信用ならぬか」


貝のように口を閉ざしたに向けて、大袈裟に溜息をついてみせる。拗ねてそっぽを向いた姫の耳を舌でつうとなぞると、小さな身体がぎくりと強張った。


「ならば、これ以上の言葉は無用にござるな」















「ならば、これ以上の言葉は無用にござるな」


そう言ったきり、幸村はあとは無言で手を動かし始めた。ほとんど反射のように、その手に抵抗する。
身体を捩ってうつ伏せたが、固い手はそれでもなお褥と身体との間に入り込み、紐を解かれて肌蹴た中へと潜った。
抗う両手を一掴みにされて、強く褥に押し付けられる。抵抗を抑え込む腕は非情な程に力強いのに、片方の手は優しくを撫でてくる。
覆い被さる幸村は、を潰さぬようにとの配慮からかそれほど重く圧し掛かっては来ないけれど、その存在感がずしりとを拘束した。


「や、やだっ」


大きくてぬるい手に胸を包まれて、身体が震える。うなじに唇が触れ、はあ、と熱い息がかかった。
は幸村のこの溜息が好きだった。甘えるような溜息。耐えるような溜息。満足げな溜息。でも、今日ばかりはそのかかる息すら恨めしい。
きっと、は子供過ぎるのだろう。何が何やら分からぬ内に、妻に娶られ女にされて、心ばかりが置き去りになる。昼間のこととて、幸村が浮気心など無いというのなら、きっとそれが真実なのだろう。けれど、心が身体が嫌だと駄々を捏ねる。

幸村の傍近くに居て、以前よりもずっと幸村をたくさん知って、これまで怖くなかったことが急に怖くなった。

妻になる前、まだ武田の姫であった頃、幸村は自分のことだけをずっと大切にしてくれると盲目的に信じていた。
その時より少しだけ大人になって、幸村に求められて、信頼が恋に変わってからは、自分が信じていたことの儚さが見えてくるようになった。
つまるところ、は幸村のことが信じられなくなってしまっていたのだ。

物心ついた頃からずっと傍に居た男だ、幸村は自分のものなのだと当然のように考えていた。自分と共に居る幸村しか知らなかったから、幸村に他の女が、なんてことは全く考えていなかったのだ。
けれど、真田の家に入り、己以外の女と接する幸村を見て、それは誤りであったと悟った。
自分以外にも幸村と親しい女子なんて大勢居るし、その中には明らかに幸村に好意を寄せる者もいる。妻であるが居ても、だ。
大抵、そういう者達はとても美しく自信に満ち溢れ機知に富み、には無い艶やかさを持っている。口元を隠しふうわりと笑う仕草は、どうやってもには真似できない。思い出すだけで溢れ出る、焦燥と劣等感。


…」
「ひっ…う、」


熱い舌がぬるりと肩を舐める。袷から入り込んだ手が胸から下腹に滑った時に、咄嗟に「いやだ!」と制止の声が溢れ出た。それは他に音も無い夜に、殊更に大きく響いたようだった。


「…何が、嫌なのだ」


幸村が手を止め、静かな声で聞く。荒っぽいわけではない、責められているわけでもない。それでも幸村の声が含む形容しがたい力に怯んだ。
何が嫌だなんて聞かれても答えようが無い。

幸村のことを心から信じることが出来なくなってしまった自分が嫌だ。
他の女のひとと一緒に居る幸村を見るのが嫌だ。
幸村に想いを寄せているひとを見るのが嫌だ。
嫉妬している自分が、嫌いで苦しい。

何とも答えられず、ただうつ伏せたまま開かれた袷を掻き合わせて黙り込む。
、と優しく、猫を撫でるような声で名前を呼ばれたけれど、それにも返事をしなかった。

そうして、暫しの沈黙の後、幸村が小さく息を吐いて身体を離した。
幸村の腕が抜けた場所に、夜の冷たい空気が入り込む。押さえつけられていた両の腕も解放された。熱い手が離れて、肌がすうと寒くなる。
前を合わせながら顔を上げると、身体を起こした幸村が湯帷子を直しているところだった。


「すまんな、
「…?」
「無理をさせていたのだな。悪かった」


幸村が、眦を下げてとても優しい顔で笑った。
その笑顔に、ざっくりと胸を斬られた気持ちになる。
「あ…ち、ちが、」出掛かった声は、ぽんと柔らかく頭の上に置かれた手により遮られる。
そのまま幸村は夜着の中から出てしまった。


「今宵は、別所で眠ろう。にとってもその方が良かろう」
「え、」


がばりと身体を起こして、すうと襖を開ける幸村を見る。
だめだ、これじゃだめだ。
何とか引き止める言葉、言い訳を捜す。だが、ぐちゃぐちゃと混乱する頭と、胸からせり上がり喉を潰す不安の所為で声が出なかった。
違うの、嫌なんじゃないの、そうじゃないの。


「おやすみ、


その言葉とともに静かに閉じられた襖が開くことは無く、突然広くなった夜着からは一人分の熱が夜風に奪われていった。











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(090221)