昼間言われた言葉が針のように喉に引っかかり、どのような顔をして会えばいいのかも分からず、はその夜、幸村を待たずに褥へと入った。
暖める者の居ない褥は氷のように冷たい。
出来るだけ端の方に陣取り、膝を抱えるようにして身体を丸めた。幸村がちゃんと入って来られるように。

顔を見たくないと思いながら、ちゃんと入って来られるようにだなんて、矛盾した行動に自嘲する。
彼が此処へ来る前に眠ってしまおうと目を閉じるが、何も見えぬ漆黒すら眠りをもたらしてはくれなかった。
どうしよう、早く寝ないと幸村が来てしまう。
そう思ってから、もしかしたらこんな心配なんてしなくてももう幸村は来ないのかもしれない、という考えがぽつりと浮き出てきた。
考えれば考えるほど深みに嵌り、じわ、と目が熱くなった時、すっと襖の開く音が聞こえた。

幸村だ。

畳を踏む音が近付くにつれて身体が強張り、起きていることを悟られぬようにと息を潜める。
夜着が動いて、冷たい風がすうと流れ込んできた。
ごそごそと隣で動く気配がする。
どうか、気付かれませんようにと祈りながら強く目を瞑った。

(…!)

突然、身体の下に幸村の腕が入り、ずるずると引き寄せられた。
声も出せぬまま、混乱の内に取り敢えず狸寝入りを続ける。
心臓が、まるで耳元で鳴っているかのようだ。どうしようどうしようと、焦りばかりが頭を巡る。
けれどそんな焦りも虚しく、幸村はの身体を褥の端から中央へと寄せた後、夜着を掛け直してそのまま腕を引き抜いてしまった。

熱の喪失感に、寒気さえするようだ。
に触れぬ距離を保ったまま、幸村も褥に入ったようだった。
もしかしたら、以前のようにぎゅうっと抱きしめてくれるかもしれない、と淡い期待を抱いただけに、落胆が大きい。胸に大穴が空いたような心持だった。
空いた穴に、どろどろと重く暗い何かが流れ込んでくるようだ。


、もう眠ってしまったのか。
抱き込みながらそうやって尋ねる幸村の声を聞きたくて、先に眠ったふりをしたことが何度もあった。
起きておったのか。先に眠っていても良かったのだぞ。
そう言いながらも、ちゃんと眠らずに待っていたことへのご褒美みたいに頭を撫でてくれる手がとても好きだった。
寒いと言えばぎゅうと抱きしめてくれる腕が心地よかった。
幸村の、氷みたいに冷たい手を握って、暖めてあげるのが好きだった。
見張る忍びに聞こえぬようにと、内緒話みたいに、ひそひそと言葉を交わすのが楽しかった。
広い背中にくっついて甘えるのが好きだった。

望めばいつだって差し伸べられていた幸村の手は今、へと向けられることなく褥に投げ出されている。


幸村はもう寝てしまったのだろうか。
忍びならば、その人が眠っているのか眠っていないのか、息遣いを聞けばすぐに分かるのだろう。
けれどには分からない。
向き直れば確認出来るのだろうけれども、は今幸村に背を向けるようにして寝ているものだからそれも出来ない。

少しだけ悩んだ末、はごろりと身体を回して幸村のほうを向いてみることにした。
幸村がたとえ起きていたとしても、きっと寝返りでもうったのだろうと思うに違いない。
動きを最小限にして、ころりと褥を転がり、彼の方を向く。薄めを開けて幸村を確認し、は更に落ち込んだ。
幸村も、に背を向けるようにして眠っていた。



(近くに、行きたいな…)



きゅう、と夜着を握り締めながら唇を噛む。
けれどもし幸村に拒絶されてしまったら、と思うと動けない。想像しただけで涙が滲む。

思えば、夫婦となって後、自分から幸村へ向かって動いたことなど殆ど無かった。
いつもいつも、幸村が溢れんばかりの優しさでもってを包んでいてくれたからだ。
はそれに甘えているばかりだった。
幸村の手はいつものもので、望めばいつだって与えられ、望まずともいつも目の前に差し出されていた。

それが当たり前になってしまい、差し出されていた手を無視し、あまつさえ与えられた幸村の心さえも疑って、辿り着いた結果が此処だ。
ぎゅうと胸が締め付けられる思いだった。
当然過ぎて、忘れていた。幸村のあの手は、誰にでも差し伸べられていたものではない。
其処にあることを忘れてしまうほど、いつだって近くに、だけに向かって伸べられていた手。
望めば幾らでも、どんな良家の美姫でも迎えられた筈の男であったのに、嫁も取らずに自分を待っていてくれた手だ。


(わたし、ばかだ)


どうしようもなく愚かしく、幼い己が憎らしい。
幸村は言葉で、行動で、全身で、わたしを大切にしてくれていたのに!

喉元にせり上がる嗚咽を噛み殺す。
あの背中に、抱きつきたい。
疑ってごめんなさいと謝って、もう一度ぎゅうっとその腕の中に入れて欲しい。
泣くな、って言いながら頭を撫でて欲しい。

ぼろりと目から雫が溢れ、流れて褥に染み込んだ。
ごめんなさい幸村。信じられなくてごめんなさい。謝るから、だから、こっちを向いて。



「…殿?」



ぎゅうと目を瞑りながら祈るように思っていると、する、と夜着が肩から滑り落ち、一番聞きたかった声が自分の名を呼んだ。
目を開くと、にじむ視界の向こうで幸村が身体を起こしこちらを見つめていた。
驚きに声も出ず、涙も拭わないままに彼を見つめる。
けれど、「如何したのです」と宥めるように言われて幸村の手が頬に触れてきた時、抑えていた色んなものが胸の内で爆発してしまった。


「ゆ、幸村っ」


夜着を剥ぎ、飛び起きるようにして幸村にしがみ付く。
顔なんて涙でぐしゃぐしゃだし、一度決壊した嗚咽ももう止まらない。
飛びつかれた幸村は何も言わず、けれど赤子をあやすように優しく背を撫でてくれた。


「ごっ、ごめ、ごめんなさい」
殿」
「信じられなくて、ごめんなさい」


ずるずると、澱を吐き出すように言葉が溢れ出す。
幸村は今、いったいどんな顔をしているのだろう。
とてもじゃないけれど、怖くて見上げることが出来ない。


「ごめんなさい、だから、やめないで」
「何を…」
「家臣に戻ったほうがいいなんて、言わないで!」
「…」
「あ、あたし幸村の、幸村と、」


幸村の、お嫁さんで居たいの!
そう言った言葉は、抱きしめてくれた幸村の胸の中で消えた。
日にちにしてみればそれ程でもないのに、随分長い間この腕と離れていたような気がする。
この人に抱きしめられることが、こんなにも幸せなことだったなんて思わなかった。
ただひたすら、離れたくないと彼の湯帷子にしがみ付く。


「某も」
「それ、やだ…」
「…俺も、すまなかった。詮無きことを言うてそなたを苦しめてしまったのだな」


幸村の言葉に、勢いよく何度も首を振る。
違うの、幸村は悪くないの。そう言うと彼は「を泣かせた」と一言呟いた。
そうしてわたしの脇に手を入れ、胡坐をかいた己の上へと座らせた。


「幸村が、他のひとのほうを向いちゃうんじゃないか、って不安だったの」
「そうか」
「……独り占めしたかったの」
「そうか」
「呆れた…?きらいに、なった?」


幸村の袷をぎゅうと握りながら、俯く。


「俺はを貰うまでずっと、姫が何処ぞに嫁に遣られてしまうのではないかとずっと恐れておった」
「え…」
「俺一人のものにして手許に置くために、あらゆる策を弄しそなたの心も聞かず嫁に取った」
「…」
「呆れたか。嫌いになったか」


見上げると、幸村が眉尻を下げて笑っていた。
また、じんわりと涙に視界が揺れる。あれほど出たのにまだ出るか、と自分でも呆れる程だ。
「嫌いにならない」と小さく答えると、「俺もだ」と幸村が頭の頂に口付けた。
その唇が、額に、瞼に、頬にと下がり、最後に唇に辿り着く。

優しい息苦しさに、芯から酔う。
先程まで心を占めていた澱は涙とともに流れ落ち、澱の出た跡には幸村が何もかもを注いでくれる。
幸村が与えてくれるもの、これまでに与えてくれたものに負けないくらい、今度は自分が幸村に与えてあげたい。
湧き上がる想いが、息を継ぐ間に零れ落ちた。



「幸村、すき…」



伝えた唇もすぐに塞がれ、また息が止まる。
少しずつ勢いを増す口付けのあわい、幸村が掠れた声で「知っておる」と言った。









<<< >>>


(090223)