桶の水を捨てに外に出てきて、空がもう明けきっているのを見上げる。
随分遅くに出てきてしまったなあと思ってから、その考えに少しだけ可笑しくなって口が笑いの形をとった。毎朝、走り去る幸村を見るために太陽の昇る前から起き出して動いていたから、今がなんだかとても遅い時間のような気がしてしまうけれども、本来ならばまだ動き出すには早いくらいの時分だろう。
重い桶の中の水を地に零して、かめから新しい水を入れる。冷たい水が足にかかって、ひんやりと気持ちが良かった。

もう、幸村は走り去ってしまった後だろうか。が居ても居なくても、きっと彼の日常は何一つ変わらずに進んでゆくのだ。そして、の日常も。もう少し時間はかかりそうだけれども、すかすかと虚しい気持ちもいずれ擦れて消え、また何事も無い毎日が戻ってくる。
全てが落ち着いたら、たまに早起きでもして、窓から外を走り去る彼の姿を見ても良い。ああでも、お嫁さんを貰ったら、もう早朝の鍛錬なんてしないかもしれない。

少しだけ額に滲んだ汗を拭って、想いを馳せながら城の方を向いて、は目を細めた。
なにかが、やってくる。朝の静寂を破って聞こえてくるこの音はなんだ。

(蹄の音…馬?)

あっという間にその影は近付いてきて、その馬にまたがる者の姿が見えるようになった。は心臓が潰れるかと思った。ぼやけていても、すぐに分かる。こんな時間に馬に乗ってこの道を全力で駆けて来る人間など、はひとりしか知らない。幸村だ。
馬は勢いを緩めずに、まっすぐにこちらに向かってくる。その勢いと速さに怖くなって、は桶を取り落とし思わず後退った。



殿!」



がが、と無理矢理に馬を止めて、息を切らした幸村が馬上から大声で己の名を呼んだ。
深い臙脂の着流し、首にかかる五文。手綱を引かれた馬が不機嫌そうに嘶く。
は言葉も出せずに、両手を胸の前で握り合わせたままその姿を見上げた。
その音に目を覚ましたのか、家の奥から「、どうしたんだい」とおばあさんの声が聞こえる。



殿、こちらへ!」



馬上から差し出された手と幸村の顔とを見比べながら、は「え、え?」と間抜けた声を出してうろたえた。こちらへ、て言われても、どちらへ行けばいいのか分からない。そもそも、何故ここに幸村が居るのかが一番わからない。



「ここでは人目がありまする。さあ」

「え、あの」

殿!」

「はっ…はい!」



勢いに押されて、混乱のままに幸村の手を取る。すると、まるでその瞬間に引力など無くなってしまったかのように、身体が宙にふわりと浮いた。「わっ!」と素っ頓狂な声が出るのにも構わず、幸村はをあっさりと馬上に引き上げた。
幸村の足の間に横乗りになり、ぐらりと傾いた重心を支えるために咄嗟に彼の臙脂の着物にしがみ付く。「しっかり掴まっておれよ」という言葉とともに、幸村の両手が自分を囲うようにして馬の手綱を持った。



「口を閉じておれ。舌を噛むぞ」

「え?…わ、え、いや、止まってー!」



の懇願も虚しく、幸村の足が馬の腹を蹴る。栗毛の馬はひとつ嘶いて、来たときと同じように物凄い速さで駆け出した。
怖い、待って、お願い止めてください、と舌を噛みそうになりながら訴えて、目を閉じ必死に着物にしがみ付く。お尻も痛いし、落ちそうだし、がくがくと揺さぶられて死にそうだった。「安心せよ」と言って幸村が頭を撫でてくれたけれど、そんなことしなくても良いからちゃんと手綱を握っていて!と叫びたかった。














しばらく馬に揺さぶられて、だんだんと馬の動きが小さくなってきたのを感じて目を開ける。
既に町は遙か後方にあった。「もう少しだ」と幸村が言う。どこへ行くんですか、と聞いても答えてくれそうにも無い。

ふと自分の手を見て、着物が皺になるほどに握り締めていたことに気付く。慌てて手を離そうとしたが、馬が揺れてやはり手を離すことが出来なかった。
すると、その様子に気が付いたのか、幸村が少し笑って「気にせずとも良い」と言っての肩を腕で抱いた。心臓が跳ねる。よく考えると、いやよく考えずともこの距離は近い。
幸村の顔を見上げると、清々したというような、とても晴れやかな表情をしていた。の視線に気が付いて、幸村がこちらを見下ろす。視線が合ってしまい、反射的に目を逸らしてしまった。




ようやく幸村が馬を止めたのは、涼やかな小川の傍。木立も少なく開けたそこで、幸村はいつも朝の鍛錬をしているのだと言った。

「朝日がな、とても綺麗に見えるのだ、此処は」

すでに町の者達は起き出しているころだろう。朝日は既に昇りきり、太陽が空を明るく照らしている。幸村が馬から下りる気配も、下ろしてくれる気配も無かったから、もただ明るい東の空を見ながら息をついた。幸村が急にやってきた理由も、急に連れ出した理由も何もかも、馬の上で激しく揺さぶられている内にどうでも良くなってしまった。

幸村の手が、の頭を撫で付ける。多分、ぐしゃぐしゃに乱れてしまっているのだろう。確かめる術は無いけれども。されるがままにしていると、幾度か頭を撫でた後、今度はふわりと抱きしめられた。流石にこれには驚いて、放してくれという意味で「ゆ、幸村さん」と声をかけたが、幸村は何も言わずに少し抱きしめる腕の力を強くした。すう、と幸村が息を吸い込むのを感じる。



「あの、幸村さ」

「好きだ」



言いかけたを遮って、頭上でまるで呟くように言われた言葉に身体が固まる。
聞き間違いだろうか。
今、幸村はいったい何と言ったのだろう。



殿を見ていると、某はとても優しい心持ちになれる。
声を聞くだけで、嬉しくなる。
そなたの手をひいておると、他の誰よりも某が幸せであるような気分になるのだ。」



まるで独白のように流れ出す言葉を聞いて、これは夢ではないかと思った。現実の自分はまだ眠っていて、都合の良い夢を見ているだけではないかと。抱きしめられているから、彼の顔は見えない。けれどその言葉が必死で、溢れそうな何かを耐えているような声で、は喉が詰まるような気がした。この先が聞きたい、けれど聞きたくない。矛盾した思いが胸の内で暴れまわる。



「鍛錬をしているときも、朝議のときも、眠る前も、目覚めた時も、いつも殿のことばかり浮かぶのだ。
そなたと会えれば嬉しい。会えぬときは寂しゅうて堪らぬようになる。
殿、某は…」



胸が溢れる。目の奥が熱い。唇が震えた。



「そなたを、恋い慕うておるのだ…殿」



知らず、は口元に手をあてた。幸村の言葉がゆっくりと胸に落ちてくる。
沁み込み、底に溜まり、溢れて、それは涙になって目から流れ落ちた。

幸村が懐から見覚えのある巾着を取り出す。中から現れたのは、幸村に返してくれとオレンジ色の髪の男に預けた、あの一文だった。それをまたの首元にかけながら、「そなたを慕うあまり、婚儀も反故にしてしまった」と、半分笑い混じりに幸村は言った。
自分の持つものではない、と手放した筈の、一文。戻ってきてしまったそれを握り締めて、は小さく息を吐き、幸村の胸に額を付けた。


はじめは、見ているだけだった。
下手な団子を食べてもらえたときは、死ぬほど恥かしかった。
同じ傘で歩けたとき、急な夕立に感謝した。
手を引かれて歩いたときには、時よこのまま止まってしまえと思った。
幸村さん、とその名を呼ぶ度顔を見る度己の名を呼ばれる度に、ときめかしい思いがどうしようもなく深くの胸に降り積もった。



、殿…?」



少し不安そうな彼の声が聞こえる。
その声を聞きながら、そっと目を瞑った。
このひとが名を呼ぶ。それだけで、自分の名が宝物のように感じられるのは一体どんな魔法なのだろう。
夏の終わり、朝の風が頬を撫でる。
それに促されるように、胸の奥底にしまっておいた言葉が零れ出した。




「        」




幸村の顔が一瞬惚けたようになり、その後、一気に笑顔が咲いた。

殿…」

引き寄せる腕は力強い。近付く睫は長くて、頬はわずかに赤らんでいる。

ふ、とやってきた息苦しさは、すこしかさついていて、でもとても幸福なものだった。








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(080816)