|
「ほらよ旦那、差し入れ」 庭先で槍を奮っていると、「まったく朝っぱらから精が出ますねー」と気の抜けた声を出しながら佐助がやってきた。忍び装束ではなく下男のような衣装で篭手も鉢金もつけていないが、佐助が濡れ縁に腰掛けたときに小さな金属音がした。恐らく、あの着物の下には忍具が収められているのだろう。 ぽんと無造作に投げられた手拭で、首裏の汗を拭い取る。 「今日も暑くなりそうだ。いやだね」と言いながら、佐助は皿に盛られた団子と饅頭を濡れ縁に置いた。それを横目で見遣って、はっとする。見覚えがある。あれは… 「佐助、それは」 「旦那が頑張ってるから御褒美。好きだろ」 「……」 皿に盛られた団子の中から一本を選び取って、ああこれだ、と思った。佐助が「それおりんさんの団子?」と聞いてくる。砂糖醤油のたれのついたそれを一口齧ってから、違う、と答えた。 「わかんの?すごいね」 「団子の形が歪んでいる」 「俺様にはよくわかんないけど」 「某にはわかる」 ああそう、と忍びは苦笑いを浮かべている。わからぬわけがない。作り始めのもっと不恰好で粉っぽかった頃から今まで、三日と空けずに食べていたのだ。この、の団子を。 「大将の分も買ってきたから、後でお茶と一緒に出そうね」と言って、佐助も団子を口に運ぶ。佐助はあまり、主である自分の前でものを食べることはない。普段は幸村に対して信じられない程に横柄で無礼な態度をとっているくせに、そういうところには煩い男なのだ、この佐助という忍びは。 またひとつ、団子を口に運ぶ。もう、きっとおりん殿のつくるものを区別をつけられるものは居ないだろう。自分を除いて。 「旦那はお姫さまとの結婚が嫌なのか」 くるくると串を弄びながら、出し抜けに佐助が言った。突然そのようなことを言われるとは思っていなかった。危うく団子を詰まらせるところだ。軽く咳き込みながら「な、なにを馬鹿な」と佐助を睨みつける。 「大谷殿の娘御でござろう。某には過ぎたるおなごだ」 「じゃあ何が不満なんだよ」 「不満などある筈が無かろう」 「ふーん。じゃあさ、あんたなんでそんな顔してんだよ」 佐助の言葉に、目を見開いて己の頬に触れた。そんな顔、とは一体どういうことだ。 「良いのか」 「な、なにがだ」 「諦めちまって良いのか」 旦那が良いなら俺は良いけど、旦那はそれで本当に良いのか。そう言って、忍びは小さな巾着を差し出した。受け取った瞬間、その中に入っているものが何なのかが分かった。薄く頼りなく、されど重い一枚。 あの娘のことが頭に浮かぶ。 その声、言葉、髪のいろ、渇いた太陽のにおい、朝焼けに染まる頬、ともに歩いた路、繋いだ手の暖かさ、胸の高揚、目の前が白くなったり黒くなったり、あの口から発せられる言葉ひとつひとつでいとも簡単に揺らぐ己のこころ。 朝焼けの道の傍らにあった、あの娘。 息苦しさに喘ぐ。あの者に出会って初めて感じた、溢れて窒息してしまいそうな感情が胸を灼いた。 無性にに会いたかった。彼女の声がききたい。その髪に触れたい。あの声で己の名を呼んで欲しい。 「旦那、あんたはどうしたいんだ」 お館様の取り成して下さった婚儀だ。相手は大谷氏の娘、器量も良く繊細でしかし性根の据わった、よく出来た娘御だと誰も彼もが姫を褒める。この先どれだけ探しても、そのようなおなごは現れないに違いない。 だが、欲しいものはそれではない。 己が本当に欲しいと思っているのは… 「佐助、すまぬ」 「うん?」 「某、用事を思い出した」 「はいはい。いってらっしゃい」 「…感謝する」 佐助から受け取った小さな巾着袋を無造作に懐に仕舞う。器に串が落ちて小さな音を立てた。それを背に大股で歩く幸村の背にむかって、佐助がひらひらと手を振る。 「やれやれ、まったく面倒臭い主様だよ」と溜息まじりに呟かれた言葉は、意志をもって歩く主の耳には届かず、ただ明けたばかりの朝の空に溶けて消えた。 歩く足がやがて地を蹴って駆け出すまでに、そう時間はかからなかった。 厩に駆ける途中、「幸村よ」とよく知った声が耳に届かなければ、煩わしく行く手を塞ぐ城の壁か、もしくは厩の戸を蹴破ってしまいそうな勢いであった。 幸村は反射的に声の方を向き、すぐさまに膝をつく。 そこに居たのは、己が最も敬愛する唯一の主であった。 幸村が挨拶をと口を開く前に、上から低くどしりと重い声がかけられ、その言葉に幸村は冷たい汗が背を流れるのを感じた。 「幸村よ、お主、儂に言わねばならぬことがあるのではないか」 「お、お館様…」 その一言で、ああやはりお館様は分かっておられるのだ、と思った。己が迷っていたことも見通され、そして今、自分が何をしようとしているのかも全て見通されているに違いない。 両手の拳を地に付け、額が付きそうな程に頭を垂れた。胸が高鳴り、喉の奥が乾いて痛いような気さえする。 この縁談は、お館様がわざわざ己の為に、己の未来を思って用意してくれたものだ。それを今、自分は。 唇を一度噛んで、息をつく。目の前の小さな石屑を見つめながら、覚悟を決めた。 「某の為、心を砕いて下されたお館様にも大谷殿にも、誠申し訳無く存ずるが、しかし、しかし…っ」 主が薦めたその姫を嫁としてもらえば、何もかもが上手くゆくのだろう。おそらくは、誰もがこの婚姻を言祝ぎ、姫を貰うた自分は三国一の幸せ者になれるに違いない。 けれど、考えられないのだ。 朝と共にやってくる、締め付けるような甘さ、名を呼ばれたときのくすぐったさ、のもたらす全てのものを今ここで、失うことなど! 「某、心に思うおなごがおりまする!この縁談、お断り申し上げる!」 目の前の土を見つめたままに、幸村は腹の底から搾り出した。 奥歯を噛み締め、そのまま平伏する。 しん、と朝の空気が静まり返ったようだった。胸は変わらずに早鐘のように打ってはいるが、何か、喉を潰していたものが取れたような気分だった。 幸村が、荒く弾もうとする呼吸を抑えながらもたっぷり六回程息を吐いたところで、頭上から低く静かな声が響いた。 「町の居る女子を召抱えることも出来よう」 「は…」 「なんとなれば、側女として手許に置くことも」 「…」 「それでもこの婚儀、反故にすると申すのじゃな」 「…某は、然様に器用な男では、御座りませぬ故」 あの娘のこと以外、考えられぬのです。 その言葉は、抑えを失ってしまった心からころりとごく自然に転がり落ちた。言ってしまってから、ああそうだ、随分前から自分は以外のおなごのことを考えられぬようになってしまっていたのだ、と気付く。 土から視線を外し、手はついたままに幸村は主を見上げる。 真っ直ぐに見上げた目と、己の主君の苛烈な視線とが絡まった。この圧倒的な存在感、思わず膝を折ってしまう威厳、その大きな心の鋼の意志とで幸村を魅了してやまない、甲斐の虎と呼ばれる武田総大将の視線に圧倒されながらも、その目を逸らすことはしなかった。 「本気なのだな」 「はい」 すう、とお館様の目が細められる。瞬きすら出来ず、幸村はただその目を見つめた。圧倒はされるが、苦しくは無い。視線を合わせて苦しいのは、心に迷いがあるときだ。己の心は既に決まっている。 主君の細められた目が閉じられ、薄く開いた唇の間から、ふうとかすかに溜息が漏れた。 そして、次にはその目が大きく開かれ、主君の口から出た声は痛いほどの静寂を破った。 「ならば行けい。其れ程の覚悟であるならば、最早儂は何も言わぬ。必ず、その者を手に入れて戻って見せよ!」 「は……はい!」 お館様は、逞しい腕を組んで、困った奴よとでも言いたげに笑みを浮かべている。そういえば先ほどの佐助もこのような表情をしていたように思う。どうしてか、胸が熱く焼けるような心地だった。 「然らば、御免!」 目の前の主にもう一度頭を下げて、また厩へと駆け出す。 既に誰か―おそらくは佐助であろうが―が知らせていたのか、そこには既に鞍の付けられた愛馬が出されていた。厩番に目だけで礼を言い、ひらりと馬に跨る。 開きかけた城の門をくぐり抜け、目指す場所へと駆けた。 向かう先の空は、明けたばかりの薄明るい錆色だ。 急げ、急げと馬を急かす。 わかっている、とでも言いたげに、馬がひとつ鼻を鳴らした。 <<< >>> (080816) |