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は、早起きというものがとても苦手な人種である筈だった。 いつからだろうか。 早起きを苦と感じなくなったのは。 こちらの朝は、とても早い。 眠い眼を擦って、顔を洗い、柘植櫛で髪をくしけずって、水鏡で確認する。 水の張った桶を持って表に出る。 辺りはまだ薄暗いが、もうすぐ朝日も昇るだろう。 の胸はとくとくと小さく、少しだけ早く鼓動を刻んでいた。 今日は少し寝坊してしまったかもしれないと思いながら、遠く、霞んだ道の先を見つめる。 この道の先にはお城がある。上田城だ。 眼を凝らすが、道の先にはなんの影も見えない。少しだけ肩が落ちた。 もしかしたら、あちらも同じように寝坊したのかもしれない、そう思いなおして、桶の水を捨てて流した。 水の音に混じって、遠くから馬の嘶く声が聞こえた。ふ、と自分の頬がだらしなく緩んだのを感じて、両手で頬をぱんと叩く。蹄の音が近付いてきた。 「殿!」 じゃり、と蹄が地を削る音と己を呼ぶ声に、は笑って振り向いた。 馬上にあったのは、赤い戦装束を着た若武者。上田の城主、武田の重鎮、真田幸村だった。 苦痛であった筈の早起きを、何よりの楽しみに変えたのが彼だ。 洗っていた桶を立てかけて前掛けで手を拭きながら、馬から下りてきた幸村の方へ近付く。 「すまぬ、少し遅くなってしまったか」 「そんなことありませんよ」 とても急いだのだろう、すこし額に汗を浮かばせている幸村に「いつもどおりです」と伝えると、彼は安堵したように笑った。 約束をしたわけではない。けれど、幸村はいつも同じ時間に此処に来て、も同じ時間に表へ出る。薪を取る、水を汲む、玄関を掃く、そういった理由をつけて。 そうして会っても、特に何をするというわけでもない。ただ、ほんの少しだけ話をするだけだ。どうでも良いような他愛も無い話をして、それから幸村はまた馬に跨り、日課である鍛錬の為に出てゆく。それだけか、という人も居る。例えば、彼の部下であるというオレンジ色の髪の忍者さんは、その話を聞いて嘆いていた。でもそれだけで良いのだ。 「殿」 ふと、幸村の声色が変わる。それを聞いて、の頬が少しだけ赤らんだ。 幸村の手が頬に触れる。目だけで辺りをちらと見回した後、幸村はの唇にそうと己の唇を寄せてきた。 太陽もまだ昇って居ない早朝、一体誰に憚ることがあるのだろうと思い一度言ってみたこともあったが、幸村の返答はこうだった。「不届きな鼠が面白がって見に来ているやも知れぬからな」 柔らかい皮膚が触れる。二度、三度。 すこし硬い指が、髪を梳く。お互いの額をくっつけ合って、静かに笑った。 ひそやかな朝の逢瀬。くすぐったくて幸せで、今でもたまに夢なんじゃないかと思う。 「ではな。あまり遅くなっては、口喧しく騒ぐ者が居る故」 「はい」 最後に一度だけ頭を撫でて、幸村はまた馬に跨った。軽く手を挙げて、馬の腹を蹴る。 朝靄を切り裂いて、赤い装束と栗毛の馬が走り出した。 顔を覗かせ始めた日の光が、幸村の髪を赤く照らし出した。 錆浅葱の空が明けようとしていた。 翻るその首元にかかる五枚の銭が、鈍く朝日を跳ね返す。 風をまいて駆け、朝焼けに光る横顔。一瞬遅れて、砂埃が彼に続く。 走り去る後姿を見て、いつかのように胸が高鳴るのを感じた。 きっと、ずっと予感していたのだ。 あのとき、彼を認めたときから。 この恋が胸の中にやってくることを。 己の首にかかる、一枚だけの銭飾りを着物の上から握り締める。 彼は馬を駆ってやってきた。この胸に、ほのかな恋を授けるために。 錆浅葱の空の下、焼けゆく朝を伴って。 そう、太陽の、目覚める前に。 fin. |