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に避けられている。 いくら鈍感な幸村でもそれだけは理解できた。その理由も、考えずとも分かる。 相変わらず朝の鍛錬は続けているし、に会えずとも特に生活が変化するわけではない。 元に戻っただけだ。何もかもが。 いずれ己は嫁を迎えることになる。そうなれば、朝、人の見えぬところで他のおなごに会うなどということが許される筈が無い。だからきっとこれで良いのだろう。これが正しいことなのだ。 小姓が少し慌てた様子で幸村の部屋に現れたのは、日差しで焼けるような午のこと。来客があった、と小姓の口から出た名に、書きかけの書簡の上に盛大に墨をこぼしたままに、幸村は部屋を飛び出した。後で口煩い侍女や忍びあたりに文句を言われるかも知れぬとは思ったが、それどころではない。途中、年配の侍女に窘められて走ることはやめたが、可能な限り足を速く動かしてその者が待つ部屋へと急いだ。 部屋の前に膝をついて声をかける前に、中から「速かったのう」と笑い混じりの声がした。ああ、やはりこの声は。「何をしておる。はよう入らぬか」という言葉に、幸村は一礼して襖を開けた。 「久しいな、幸村よ」 脇息に腕をかけてどっしりと部屋の奥に座っていたのは、敬愛してやまぬ己の主であった。「お久し振りでございます、お館様!」と言った己の声は、思ったよりもずっと大きくなってしまった。お館様が、やれやれと眉を下げる。戦装束ではなく、仕立ては良いが華美ではない着物を着た主は、平時であっても大きな山のような存在感を放っていた。 「何故このように突然…知らせを下されば、お迎えに上がりましたものを!」 「なに、偶には良かろうて」 なかなか楽しかったぞ、と笑う主に、今度は幸村が小さくため息をついた。甲斐武田の総大将が、たいした供も連れずに山中を歩いてきたなどと、他の将が聞いたら気を失ってしまいそうだ。他の者が知らずとも、忍びには知らせが言っていた筈だ。それが伝わってこなかったところをみると、お館様が口止めなさっていたのだろう。 「佐助がな、幸村が儂に会えず寂しがって駄々をこねておると」 「な…そのようなことは御座いませぬ!」 あの忍びめ、また適当なことを言ってお館様の手を煩わせおって。心の中で忍びに悪態をつきながらも、豪快に笑う主を目の前に、胸がいっぱいになるのを感じる。どのような理由であれ、主君の顔を見れる事ほど嬉しいことはない。 侍女が持ってきた茶と菓子を手に、他愛も無い話をしてひとしきり笑った後、「さて」と主がこちらに向き直った。 「薄々検討は付いておろうが」 「はい」 「儂が上田まで来たのは、幸村よ、お主の婚儀についてだ」 きた。幸村は、小さく喉を鳴らして、膝の上で拳を握り締めた。それに気付いておらぬのか、それとも気付かぬふりをしているのか、主は一口茶を飲んで話を続けた。 「聞くところによると、お主、迷っておるそうじゃのう」 「は……」 幸村は、自分の心臓が跳ねたのを感じた。喉の奥が乾く。迷っている、などと一体誰が。直ぐに言葉を返すことも出来ぬままに、幸村はぱくぱくと口だけを動かした。 迷っているわけではない。お館様御自ら取り成して下さった縁談だ。断る理由も、迷う理由もどこにもありはしない。一体誰がそのようなことをお館様のお耳に入れたのだろうか。思いつくのはひとりだ。あの、不届きな忍びの他に誰がいる。 「迷ってなどおりませぬ!お館様が某にと御用意して下されたこの縁談、感謝すれども迷う理由など!」 「ふむ」 「佐助で御座りまするな!あの忍び、余計なことを…!お館様、某は、」 「もうよい。ようく分かった」 それならば良い、と主は軽く手を振って幸村の言葉を押し留めた。 部屋を離れて自室に向かって歩く間に、お館様の言葉が何度も頭を回った。 「迷っている」 一体何に迷うというのだ。迷ってなどいない。幸せなことだ。お館様の選んでくださったおなごだ、きっと素晴らしい娘に違いない。己は果報者だ。迷うことなどひとつもない。 ちらと頭の中を過ぎった、朝焼けに目を細める横顔に、足が止まった。 首元の、一枚欠けた六文銭が音を立てる。その音を消すように、幸村は首にかかる五文を強く握り締めた。 迷ってなどおらぬ。 知らずに噛み締めた唇が、ちくりとした痛みを訴えた。 <<< >>> (080813) |