程なくして、躑躅ヶ崎館よりお館様の書状を携えた使者が上田に入った。口上も書状に書かれていたことも、全てがまるで夢のようで、どうにも実感が沸かぬというのが本音であった。それがこの世の常とはいえ、顔も知らぬ会ったこともないおなごと生涯の夫婦になれ、と言われても素直に受け入れることは出来ぬ。
皆、口を揃えて気の早い祝いの言葉などを寄越してくるが、幸村にはまるで自分のことではないもののように感じられた。

朝はやはりいつもと同じように町の外まで馬を走らせ、その途中でと二、三、言葉を交わす。昼間は、鍛錬やまつりごとのあれやらこれやらをこなし、日が落ち夜が来れば眠る。縁談が持ち上がったからといって何が変わるわけでもなく、周りの者達の冷やかしが無ければ全てが夢だったかと思ってしまうほどだ。

歳のいった女中がしきりに「幸村様のお嫁様となれるなんて、羨ましい」というようなことを言う。
「あたしの旦那は、女と見れば誰彼構わず手を出すような男でね。若い頃は大分気を揉んだものだよ。でも、幸村様ならそんなことはしないだろうし、お嫁様も安心だろうね」と。

ふと、の顔を思い出した。もしも嫁を貰ってもに会うことは可能だろうか。いや、無理ということはあるまい。いざとなれば側室にでも召し上げて…と、そこまで考えて、幸村はその考えの浅ましさに己の頬を張ってやりたくなった。



「町へ下りてくる」



そろそろ日も落ちようかといった時分、人影の無い部屋の中で声を上げる。姿は見えぬが、いつも幸村の傍近くに控えている忍びからの返事は無い。
草履を引っ掛けて、着流しのまま袴も付けずに外に出る。いつもならばこのようなことをすれば、「旦那は一応城の主ってことになってるんだから、そんな格好で町に下りるなんて絶対駄目」と口喧しい忍びに説教されてしまうのだが、今日はそのようなことはなかった。

日も暮れかかり、町の者たちの歩みは速い。家路につく子供。飯の炊けるにおい。そういうものをぼんやりと感じながらぶらりぶらりと特に目的も無く歩いていた筈であったのに、気が付けば足が自然とあの娘の茶屋へと向かっていた。そろそろ店も終わりなのか、縁台の上の緋毛氈を片付けるの姿を認めて、苦笑する。何も考えずに歩いていた筈が、足が向かったのは結局のところだった。



「あ…」



顔を上げてこちらを認めたが、小さく声を出した。今朝にも会ったはずであるのに、随分と久し振りに会ったかのような錯覚に陥る。こんばんは、と笑うの顔を見て、胸がぎゅうと締まった。



「もうお店終わりなんですよ」

「そのようだ」

「でも幸村さんは特別です。何か召し上がっていかれますか?」



お饅頭なんていかがです、と尋ねるに首を振って、今日は遠慮しておくと伝えた。は少しだけ残念そうに肩を落とす。
『幸村さんは特別』
それは、得意客としての特別だ。その特別が、己がに向けるものと同じ意味合いでの特別であったならばどんなに良いだろうと思う。



殿、少し歩かぬか」

「え?」

「店はもう閉めるのだろう」



少しだけうろたえた様子で、が店の方に目を向ける。「ちょっと、待っててくださいね」と言って店の奥に入り、中の者と何事か言葉を交わした後、こちらへと駆け戻ってきた。



「おばあさん、良いって」

「では参ろう」

「はい」



ごく自然に、の手を取って歩き出す。の手が少しだけ強張って、それから躊躇いながらも握り返してきた。知らず口元が緩む。たったそれだけのことであるというのに、胸の内が高揚する。先人がこれを病と言ったのも頷ける。











他愛の無い話をしながらのんびりと歩く。最初の頃は挨拶をするのがやっとであったというのに、それがまるで嘘のように気が付けば日はすっかり沈みきり、夜の帳が町を覆い始めていた。
ただひたすら、繋いだ手が熱い。
町をすこし外れ、家もまばらになってくる。空を見上げると、星が光り始めていた。そろそろを帰さねば、家の者が心配するかもしれぬ。



「そろそろ、戻らねばなるまいな」

「まだ大丈夫ですよ」

「家の者に心配をかけてはならぬ。送ってゆこう」



くい、との手を引く。が、小さな抵抗を感じて足を止めた。
「…殿?」
振り向くと、は沈んだ表情で俯いてしまっていた。一体どうしたのかと覗き込むと、小さな、ともすれば夏の虫の声に消されてしまいそうな小さな声で、がぽつりと呟いた。



「も、ちょっと一緒に居たいです」



どくり、と心臓が跳ねた。
「……なんて、冗談です」とはすぐに先ほどの一言を撤回するように言ったが、幸村の頭の中ではの「一緒に居たい」という言葉が反芻されていた。

某も、一緒に居たい。もうすこし。一刻でも、半刻でも、一瞬でも。
家に帰してしまうのが惜しい。このまま抱きかかえて、一目散に城まで連れ帰ってしまいたい。



「…ど「幸村さん、結婚するんですね」



被せられたの言葉に、今度は違う意味でどくりと心臓が跳ねた。知られていたのか。
応とも否とも答えられぬままに、声も出せぬ口ばかりを間抜けに開けて、俯くを見る。

そのうちに、ぱ、と繋いでいた手を解かれて、が幸村を追い越した。
数歩先で立ち止まった、何も言わぬ小さな背中を見つめる。

違う、と言ってしまいたかった。
婚姻などせぬ。嫁など貰わぬ。某はそなたが、そなたを。
それを言ったとて何が変わるわけでもない。だが、嘘でもそう言ってしまいたい。
なんのことだ、結婚など某にはまだ早い、する気など無い、そう言えば彼女は笑って振り向いてくれるだろうか。
黙ったままの背中に手を伸ばす。
この腕の中に抱き寄せて、想いを伝えてみせようか。

だが、あと少しで届く筈であった手は、の言葉によって行き場を無くしてしまった。




「おめでとうございます」




幸村さん、きっといい旦那さんになるんでしょうね。

城の女中達と同じ台詞が、の口から流れ出た。がつん、と頭を打ちのめされたような衝撃が走る。
が振り返る。暗くて、その表情がよく見えない。
誰から貰っても、からだけは貰いたくなかった言葉に、幸村は知らず唇を噛み締めた。

そうではない。そうではないのだ。
違う、某が、某が想っているのは…!


おめでとうございます、ともう一度が言った。
笑っているのかそうでないのか、の表情はやはりよく見えなかった。












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(080623)