結婚?

呆然と聞き返したに、緋毛氈に腰掛けた男は慌てて手を振り、「いや、まだ決まってはいないらしいんだけどな」と茶を飲んだ。

上田の城主、真田幸村に縁談が持ち上がっている、という話が聞こえてきたのはまだ蝉の鳴く午後のこと。男の言葉をすぐには飲み込むことが出来ず、えんだん、というものの意味を考える。

幸村の奥手ぶりは城下の者達もよく知るところである。幸村も良い歳であるし、今までも何度かこのような話が持ち上がったことがあったようだが、彼の奥手振りが災いしてかはたまたそれ以外の理由でか、結局のところ全て流れてしまっていたらしい。


「だから、今度もまた流れちまうんだろうけどな」


饅頭を頬張りながら、でもはやくいいとこから嫁さんでも貰って落ち着いたほうがいいと思うんだがよう、と男は笑う。だが、残念ながらは全く笑えなかった。
えんだん。縁談。
胸の内を、ひやりとした何かが流れる。この時代の人は早婚だ。いつ、ぽんと結婚が決まってしまってもおかしくないのだ。



(幸村さんが、結婚…)



それが決まったら、幸村さんはどうするのだろう。
もしかして、もう会えなくなったりするのだろうか。真面目な幸村のことだ。嫁を貰ろうたのだから、他のおなごと会うことは出来ぬ、と言ってもうこの茶屋にも顔を出さないという可能性もある。
このままあっという間に結婚が決まって、もう二度と、会えなくなったりしたら。

着物の下、自分の体温と同じ温度になった、首に下がる硬質な一文に手をあてる。

この一文を預けられたことで、は自分が幸村の『特別』な何かになれた気でいた。
だが、一体何になれたというのだろう。
畢竟、幸村ととの関係は、最初に会った時から何も変化していないのだ。
友にはなれたかもしれない。だが、以前として幸村はこの上田の城を預かる城主であり、はその上田の数多くある水茶屋のひとつで働く娘でしかなかった。


会わなくなれば、記憶の中に沈んで消える。
一文だって、財布の中にあるものを足せば戻る。
残るものは何もない。


ずうん、と喉の奥が痞えるようだ。
「おいちゃんよう、大丈夫かい」とかけられた声も耳から抜けて、盆を胸に抱えたまま、はぐるぐると巡る思考に囚われた。













その日一日、水底に溜まる澱のような重いつかえを胸に抱えたまま過ごした。少しでも手があくと、どうしても先に聞いた縁談云々のことが頭の中を巡り、注文を取り違えたり茶碗を割ってしまったりと散々な有様だった。仕舞いには、見兼ねたおばあさんに「何があったのか知らないけれど、ちょっと頭を冷やしておいで」と外に出されてしまった。
申し訳なさと情けなさで、ますます気分が落ち込む。酷すぎる。

足を引き摺りながら、昼と夕方の間の町を歩く。
まだ正式に決まったわけでは無いというのに、考えすぎだ。
だいたい、幸村がどうするかはには関わりのない問題であるのだから、思い悩むだけ無駄なのだ。
そう、頭の内では思ってもやはり心の澱は流れ落ちはしなかった。
それどころか、幸村さんはずるい、というお門違いな苛立ちまでもがこころに昇ってくる。


あのとき、最初に言葉を交わしたあの日に幸村が茶屋に来なければよかったのだ。
いやそれ以前に、早起きなんて面倒くさいこと、しなければよかった。
そうしたら、こんな気持ちなんて味わわずにすんだのに。

こんな、こんな、
胸の奥をひっかかれるような、喉がつまるような、

こんな気持ちなんて。




ざり、と草履が砂を引き摺る。
短い息をついて、空を見上げた。太陽はもう随分と低い。

あの太陽が沈んで夜が来て、静寂と黒とが世界をつつみ、月と星が薄明かりに消えて、そしてまた朝が来る。いつもそれが待ち遠しかった。
朝の冷たい空気の中で、眠い目を擦りながら毎日毎日同じ時間に外に出た。
死に物狂いで団子作りを練習した。
少しでも字が読めるようにと、忙しいおばあさんを捕まえて一生懸命に習った。
きっと全部、あのひとのためだった。



(ほんとは、ずっと…)



茶色い髪がゆれる様子も、はにかんだ笑顔も、貰った手紙も、風車も、毎日髪を梳る櫛も、胸に下がる一文も、幸村がもたらした全てのものが、の心を揺さぶって掴んで離さない。
薄らと気付いていた。いや、本当はもうとっくの昔に気付いていたんだと思う。
(わたし、あのひとのことが、)


好きなんだ


溢れるように漏れた呟きは、誰の耳にも留まらずに、そのまま真っ直ぐ地に落ちた。











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(080623)