「旦那ってさあ…馬鹿だよね」

文字通り頭をかかえて蹲る幸村へ、天井裏から声がかかった。見ると、なんとも呆れた顔をした忍びが、さかさまに天井から顔を覗かせている。その顔をちらと見やって、また幸村は不貞腐れたようにごろりと横になった。

昨日、ようやっと上田に帰還した。二月ぶりの上田は、幸村が出立した時と微塵も変わっては居ない。戦を終えて、家族と再会を喜び合う者、戦に奪われた命に無き咽ぶ声を聞きながら城を目指していたところで、小さく自分を呼ぶ声がした。もしやと思いそちらに目を向けると、大きな黒い目と視線が合った。

この二月、何かあるごとに彼女を思い出していた。心配しているのではないか、夏だからと油断して風邪でもひいていやしないだろうか。綺麗な飾りを見れば、これはに似合いそうだと考え、上田に帰る日取りが決まれば、心が逸ってひとり飛んで帰ってしまいたかった。

たった二月だ。それだというのに、の顔を見て、思わず平生では決してとらぬような行動をとってしまった。はじめてこの腕に閉じ込めたおんなというものの身体は、まるく柔らかく、日向の香りがした。幸村の胸の内はひどく震え、その細い身体をこのままずっとここに留め置いておきたいとすら思った。

そして、今日。
あの薄明るい朝に、彼女の姿を見ることは出来なかった。



「大勢の前でいきなりあんなことしちゃうんだもんなー。そりゃあ顔合わせ辛くなるってもんだよ」



まあでもちょっと照れてるだけだって!大丈夫だよ旦那!と、慰めているのかからかっているのか…おそらく後者であろう忍びの言葉に、幸村は恨めしげな視線を向けた。大体、朝にと会えなかったことをなぜこの忍びが知っているのか。主が命じても居ないのに尾行のような真似をするなどと、まったくとんでもない忍びである。



「ほら、もうすぐ昼だよ。店に行くって言ったんだから、ちゃんと行けよ」

「…煩い」

ちゃん待ってるかもしんないぜ」



朝会えなかったからなんだってんだよ。ただ寝坊しただけかもしれないだろ。
と、佐助が今度は本当に幸村を慰めるような声を出した。幸村とて、そのようなことはわかっている。だが、忍びの言うように、勢いとはいえ大勢の前で突然、だ、抱きしめるなどという破廉恥な行為をしてしまった手前、やはりは怒っているのではないかと心配で堪らないのだ。

悩む前に身体が動く性質の幸村であったが、今回ばかりはそうもゆかなかった。ごろごろと畳の上で悩みながら、いやしかし、だが、などと理由をつけて延ばしていたのだが、とうとう「ああもうとっと行けよ、目障りなんだよ!」というとんでもない暴言とともに佐助に城から放り出された。あの忍びの禄については少し考える必要がありそうだ。だがこうなってしまっては、もうあの茶屋にゆくより他に無い。












町に出ると、道をゆく者達の視線がたいそう痛かった。だが、城に戻ってもまた佐助につまみだされるのが目に見えている。幸村は覚悟を決めて、目指す茶屋に向かって歩み始めた。
あの茶屋に向かうのにこんなに緊張したのは、初めて、あの朝の娘を見るために茶屋に向かった時以来だ。すっかり店の馴染みとなって、に会うのにほとんど全く緊張もしないようになったというのに、二月ばかりで、はじめの頃に戻ってしまったかのようだ。

だが、そのような緊張も、茶屋の前でを見た瞬間に吹き飛んでしまった。緊張とはまた違った感覚が身体をはしる。ぼうと芯が熱くなるような、ふわふわと飛んでしまいまいそうな。

一体これは何だ。



「あ、幸村さ、ん…」



が幸村に気付き、どこか焦ったような表情をした。そんな表情であるのに、何故にか己の胸の内がどうしようもなく熱くなり、締められるように感じる。一体これは何なのだ。何かの病だろうか。後で侍医に診て貰わねばならぬかもしれぬ。


「茶と、いつもの団子を頂けまいか」


やっとのことで声を絞り出して、二月前まで毎日のように見ていた緋毛氈の上に腰掛けた。は、何かを言いたそうに両手を合わせたり、指を絡めたり離したりと落ち着かない。そのうちに、眉尻を下げてに俯いてしまった。はやく、何でもよいから何か話してくれと急かしたかったが、それをするとはますます何も話さなくなってしまうだろうと思い、己にしては驚くほどに辛抱強く耐えた。

だがやはり、耐え切れずに声を発したのは幸村のほうだった。



「…今日は、居らなかったのだな」



いつ、どこに、などと付け加える必要も無く、それだけでには伝わったようだ。もうあの時分に起きるのはやめてしまわれたのか、と聞くが、は俯いたままだ。
返事が無いことに酷く悲しくなり「…あのとき、某に抱き締められたこと…お嫌でござったか」という声は己が思う以上に落胆の色を濃く含んでいた。勢いにまかせてあのようなことをしてしまったことは申し訳無く思うが、まさかそんなにも不快に思われていたとは。
だが、焦ったように返された返答は思いがけぬものであった。



「そんなことないです!」

「…」

「あ、ええと、本当に嫌じゃなくて…」



驚いたようにそちらを見ると、が困ったように眉を下げていた。



「嫌とかじゃなくて、すこし驚いてしまったんです」

「そう、なのか」

「……今朝はその、幸村さんがまたお店に来るんだって思ったら、楽しみで緊張して寝られなくて」



寝坊したんです…と消えそうな声で言われた言葉に、幸村は思い切り安堵の溜息をついた。良かった、疎まれたわけではなかったのだ。そう分かると、今度は腹の底から歓喜が湧きあがってくる。己に会うのが楽しみで、寝られなかった、などと!
思わず緩んでしまった表情も隠さずに、「寝坊とは感心せぬ」と言うと、「見逃してください」と笑いを含んだいらえがあった。












その後からは、この二月分を取り戻すように、たくさんの話をした。
思えば、奥からおりん殿や主人が出てこなかったのも、それ以上客が入ってこなかったのも、全て自分達に気をつかってのことだったのだろう。
幸村が笑えば、も笑った。
これだけのことだというのに、一体どうしたことか、己の言葉にが返すたびに胸が高揚した。

気が付けばもう日が傾きかけており、流石にこれ以上を己につかせているのも悪いと思い、切り上げることにした。どこかで切らねば、このまま月が出るまで話し込んでしまいそうだった。
名残惜しいが、緋毛氈から腰を上げる。そこでが、あ、と声を上げて懐から小さな布袋を取り出した。



「幸村さん、これ」

「なんだ」

「お預かりしていた一文」



お返しします。そう言って、は長く月日を経て色の変わった一文を幸村に差し出した。にぶく光るそれを見ながら、これを渡した日の事を思い出す。

初めて、自分のためでもお館様のためでもなく、他の者のために生き延びようと思った。
己が討ち死にすれば、城の者たちは悲しむだろう。兄も、家の者達も悲しむだろう。
だがそれは、真田幸村という武将が失われたことへの悲しみだ。いや、正確には兄はそうでは無いかもしれぬが、己も兄も武門の子なれば、戦場に散ることは元より覚悟の上。戦に死ぬことこそ誉れと、涙など流さぬに違いない。

だが、は違う。真田の家の者でも、武田の武将でもなく、ひとりの人としての己を案じその死が怖いと言ってくれた。なればこそ、誉れある死への覚悟ではなく、生きるための覚悟を胸に戦に望んだのだ。
それは幸村にとって、死を恐れず戦うことよりもずっと難しいことであった。

戦場で生きる。

此度の戦で、幸村が学んだことのひとつ、その切欠をもたらしたのはお館様でも佐助でも他の武将達でもなく、ひとりの茶屋の娘だなどと、一体誰が信じるだろう。



「…これは、そなたが持っていてくだされ」



幸村はそっと、の手の中に一文を戻した。え、と声を上げながらがそれを返そうとしたのを、もう一度制する。



「その一文銭は、某をこの世に繋ぎとめる、楔にござる」

「…くさび?」

「然様。某が簡単に川を渡らぬよう、そなたが持っていて下さらぬか」



幸村の顔と手の中の一文とを見比べながら、が小さく「わたしでいいんでしょうか」と呟く。
そなたが良い、と言うと、がはにかみながら頷き、また小さな布袋にそれを大切そうにしまった。

その様子に、またも胸が苦しくなる。錆びかけた一文のその意味を理解し受け取ってくれたが、なにか、とても大切なもののように思えてくる。
そしてまた、ふと袂に入る櫛のことを思い出した。朝、に渡そうと思い渡すことが出来なかったものだ。
袂から、緋色の布につつまれた櫛を取り出す。それを手渡すと、は心底不思議そうな顔をしてこちらを見上げてきた。



「土産だ」

「お土産…?」



彼女は困ったように眉尻を下げて、そうっと緋色の布を開いた。中から出てきた柘植櫛をじいと見つめて、綺麗、とひとこと、呟く。



「ありがとう、ございます」



その顔が幸村のほうを向いて、ふわりと綻んだ。
嬉しそうに、それはそれは、嬉しそうに。





瞬間、幸村の内に、電撃のような衝撃がはしった。





足の先から頭の頂までがぞわりと泡立つ。櫛を持って笑むを見て、本能的に幸村は理解したのであった。あれほどまで疎んでいた名だというのに、それはすんなりと幸村の中へ染み込んでいった。

ああ、そうか。これが、そうなのか。

ありがとう、嬉しいですと幾度も繰り返されるの言葉に返事を返し、また明日の朝に、と言い置いて茶屋から出た。彼女は、幸村の姿が見えなくなるまでその場で見送ってくれていた。












城までの道を、ぼんやりと歩きながら、あの娘のことを考える。



槍を奮う時とは違う、この胸の高揚。
走らずとも覚束無くなる息。
頭の芯が熱くなり、言葉が出て来ぬようになるこの感覚。
の声を聞くだけで、火のように熱を帯びる耳。


への会いたさ故に、毎朝同じ時分に起きた。
おりんの美味い団子よりも、の未だ未熟な団子のほうが好ましかった。
美しい飾りを見るたび、にさぞかし似合うだろうと考えた。
戦場で、を悲しませぬため、生きようと思った。
日毎に、あの娘のことを考える時間が多くなった。


月を見て彼女を想い、太陽を見て彼女を想った。


朝に焼け、昼に広がり、夕日に燃えて、夜に満ちる、このこころ。





ああ、これが。




これが―――…恋か。













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(080416)