ざり、ざり、と鎧姿の男達が土を踏みしめ帰城していくさまを、は手を握り締めながら見ていた。出て行ったときとは、すこし違う。人が多少入れ替わったような気もするし、皆、甲斐本拠地から上田までの長旅で汚れている。だがその顔は晴れやかだった。
列をつくって入る兵卒達のなかから目的の人物を探すため、くびを伸ばす。道すがら家族か知人に出会ったのか、ぱらぱらと列がほどけているところもあった。それを横目で見ながら、爪先立ちで列を見渡す。


(いた…!)


列の後ろ側、馬を引いて歩いているその姿を見つける。あの、赤い衣装。一度しか見ておらずとも忘れはしない。あれは紛れも無く幸村だ。あちらは、には気付いていないようで、隣を歩く兵と何やら話をしている。幸村は上田の兵たちを束ねる大将なのだから、もっと先頭を歩いてみたりだとか、豪華な馬に乗っても良さそうなものなのだが、彼はまるでただの足軽のように他の兵卒と混じって歩いていた。

同じくの横で列を見ていた恰幅の良い女のひとが、「あんた!」と大きな声で叫んだ。呼び声に反応して、列を掻き分けて出てきた男とそのひとが手を取り合っているのを横目で見つめる。夫婦だろうか。二人はもう言葉も無く、だが見つめ合ったその目が何よりも雄弁に全てを物語っていた。

どうしよう。

幸村は、未だこちらに気付かぬままだ。それはそうだろう、見つけられるわけがない。それに、あのような手紙までしたためてくれた幸村のこと、いずれまた茶屋を訪れてくれるだろう。それまで待てば良い。ここで、声などかけずとも良い。

何か面白い話題でもあるのか、赤い軍勢の中、の知らぬ顔で笑う幸村を見て、突然彼が遠い遠いひとのように思えた。このような時、どういう立場の人間ならば声をかけられるのだろう。
家族だろうか。仲間だろうか。友人だろうか。恋人だろうか。

そのようなことを考えながら、ゆっくりとはるか前方を横切る幸村を見る。
ああ、帰って来たのだ、彼が。
幸村と最後に合ってから、二月が経っていた。短いような長いような時間の中で、幾度幸村のことを思っただろうか。
その彼が、今、帰って来た。



「ゆ――…ゆきむらさん!」



気が付けば、まるで器から水が溢れるように、喉から声が飛び出した。その声に自分でも驚いて咄嗟に口を覆ったのと同時に、幸村が振り向きその目にまっすぐにとらえられた。然程大きくは無かった声の筈なのに、何故にか幸村にはしっかりと届いてしまったようだ。暫し呆然とこちらを見たのちに、幸村のその焦げ茶の瞳が大きく開かれる。そのまま、列を掻き分けてこちらへ一直線に向かってきた。
先程、手を取り合って言葉も無く見詰め合っていた男女の姿が脳裏に浮かぶ。

そんなつもりじゃなかったのに!

幸村がこちらに着く前に逃げ出したい衝動に駆られた。だが、彼の目が真っ直ぐこちらを向いているものだから、目を逸らすことも出来なければその場から動くことも出来ない。まるで足に根が生えたようだ。
口を抑えたまま、頭の中だけがどうしよう呼んでしまったと混乱する。

幸村が横断した所為で崩れかけた列を歩く兵卒達が、なんだなんだと大将の行方を目で追う。
(め、目立ってる!)
ただでさえも恥かしいのに、皆の注目がやがて幸村の目指すの方へも向いてくるものだから、本当に逃げ出してしまおうかと思った。

さあっ、との前にあった人だかりが避けて、幸村ととの間に人で囲まれた道ができた。もう、勘弁して!と半分癇癪を起こしそうになりながらも近付いてくる幸村を見る。ずんずんと揺るぎない足取りで赤がの二歩前まで近付く。そこで足を止めるだろうというの予想は、まったくとんでもない形で裏切られた。



殿…っ!」



頭がまっしろになった。
二歩前まで近付いた赤はそのまま止まらずに距離を縮め、あっ、と気が付いた時には既にぎゅうと抱きしめられた後だった。

これはいったい、どういうことなのか。

なにが起こったのか、瞬時には理解できなかった。ただ、目の前の身体はとても温かくて少しだけ汗のにおいがする。

殿、ともう一度耳元でため息のように呼ばれて、ゆっくりと、薬缶の湯が沸騰する間際のような熱が身体をのぼってきた。幸村の無骨な篭手に包まれた手が、背と、そして頭に回る。そのままさらにぎゅうと強く抱かれて、胸の内が噴火したようだった。
まわりでと幸村の様子を見ている兵卒の顔も、住民の顔も、皆ぽかんと阿呆のように口が開いている。の口も同じように開いていた。

赤い篭手をはめ、戦場で多くの敵を屠ったであろう幸村の手が、その堅さからは考えられぬほどに優しくの頭を撫ぜた。腹と胸とを隠すことをしないその装束のせいで、幸村の肌が直に感じられる。



「ゆ、ゆ、」

「そなたとこうして見える日を心待ちにしておった」

「あの、」

殿、某は…」

「人が見てます…!」



最後の勇気を振り絞ったその声に、ようやく幸村も周りの状況を理解したらしく「あ、いやこれは…すまぬ!」と言って身体を離した。だが、その手は未だの背に回っている。その姿勢のままで、幸村はじいとの顔を見つめて、もう一度耳元に唇を寄せてきた。ぼう、と耳が熱くなる。おそらく今、自分の耳は幸村の戦装束といい勝負が出来そうな程に真っ赤になっているのだろう。思わず仰け反ろうとする背を押さえられ、耳元で静かな声が落ちる。



「明日、またそなたに会いにゆく。待っていてくだされ」



それだけを告げて、幸村は今度こそから手を放した。
そうして、少しだけ頬を赤くして、にこりとこれまたが見たことの無いような顔で笑い、列に戻っていった。そこでようやく、ほとんど止まりかけていた列がまた動き出したのだが、未だの中の時間は止まったままだった。


先程のままの体勢で止まりながら、ばくばくと飛び出しそうな勢いで鳴っている己の鼓動を感じる。
混乱する頭を落ち着かせようと、胸に手を当ててゆっくりと呼吸する。落ち着け、落ち着け。

―落ち着け、落ち着け。
「あれ、どこの娘だい」
―落ち着け、落ち着け…
「あの通りの、茶屋のとこのじゃないかね」
―落ち着け、落ち…
「なんだい幸村様も初心なふりして、まったく隅に置けないねえ」

人々がひそめく中で落ち着けるわけも無く、とうとう耐え切れなくなってはその場から逃げ出し、茶屋まで一直線に駆け抜けた。


息が上がって心臓が速くなる。
顔は火照って、纏わりつく空気は温い。
きゅうきゅうと締め付けるような感覚が、胸から腹から体中全部を支配している。
まるで、自分が火の玉になったような気持ち。

ああでも、これはきっと全部、走った所為などではないのだ。








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(080409)