|
戦が終わった。あんなにも苦戦していたことが嘘のように、呆気なく小田原は落ちた。武田の領国がこれでまたひとつ増え、確実にお館様のご上洛は近付いている。いずれまた大きな戦もあるだろうが、これでひとまずは決着が着いたことになる。 落ち着き次第、また上田へ戻り北の固めよとの命が下った。お館様にまた暫く会えぬことは寂しいが、上田はひとつの要、その要所を任されたからには命を賭して上田を守らねばならない。本当ならば、すぐにでも兵を引き連れて戻りたいが、戦が明けて疲弊した兵達には暫しの休息が必要だった。 皆精進が足らぬ、とこそりと忍びに漏らしたが、返答は旦那と違って皆普通の人間だってことでしょ、という冷たい一言だった。 気が付けば戦のうちに春が過ぎ、とうに夏がやってきてしまっていた。躑躅ヶ崎館の近く、以前幸村にも与えられていた家臣団の屋敷のうちのひとつに身を置き、良く言えば平穏、悪く言えば退屈な日々を過ごす。勿論鍛錬を怠るようなこともせぬし、お館様に手合わせして頂くなど毎日充実しているといえばそうであるのだが、長く上田に身を置いていた所為か、未だ少し慣れぬような気がするのだ。 いつものように兵たちに声をかけ、ふと思い立って町に出た。甲斐の夏は眩しい。 特に何をするでもなく、ぶらりと町を散策する。以前ならば町の茶屋で知らぬところなどないと言い切れた幸村であったが、暫く見ぬうちに何軒か、見たことの無い店ができていた。通りには香具師が露天に店を出している。 そのうちのひとりが、ぶらりぶらりと歩く幸村に声をかけてきた。 「先の戦でここに来たお侍様かい。どうだい、国の家族に土産でもひとつ」 己が忍びの「旦那はすぐのせられて物買っちゃうんだから、呼び止められても無視しとくんだよ」という言葉を思い出したのは足を止めてしまってからだった。これはどうだあれはどうだと目の前に並べられて、幸村はいつぞやもそういえば同じことがあったなと思った。と共に行った縁日のまつり。もう随分昔の事のように感じられる。 「ほら、これなんてどうです。柘植櫛だ」 つい、と差し出された櫛は、優しい丁子色に雪輪と梅が掘られていた。髪をきちりと結う者たちが多い中で、幸村は無造作に己の髪を後ろに結わえているだけだ。女人などの髪が、いつもあのようにさらりとしているのは、こういった櫛で梳いているからなのであろうな、と頭の隅で思う。そういえば、殿の髪もいつもやわらかそうに風にそよいでいた。彼女も、そうやってくしけずっているのだろうか。靡く髪に手を差し入れたら、さらさらと気持ち良いかもしれぬ。 「すこうしばかり値は張りますがね。いいものですよ、なんていったって…」 「貰おう」 「へ?」 「それを買おうと申しておるのだ」 いくらだ、と問うと香具師は目を丸くして黙った後、すぐににこやかに返事をして櫛をつつみはじめた。 この薄い色の櫛で、が髪をくしけずる様子が思い浮かぶ。これを渡したら、彼女はどのような顔をするだろうか。また以前のようにいらぬと頑なに首を振られたら、土産なのだから受け取れと強引に置いてきてしまおうと思った。だがおそらくはその必要は無い。櫛を受け取って、朗らかな笑顔を浮かべるを思う。 己の顔が知らずに緩んでしまっていたことを知ったのは、「あれお侍様、もしやこれは、くにに想い人でもいらっしゃるのかね。顔がにやけていますぜ」と香具師にからかわれた後だった。 買った櫛を袂にいれ、またぶらりと町をめぐり、日が傾き始めたころに屋敷に戻った。 自室に入るとすぐに、外から「すこし宜しゅうございますか」と声がかかった。 はいれと命ずると、音も無く障子が開いて、男がひとり入ってくる。 「小助か」 一見してただの町の男のような格好をしているその者は、真田忍びのなかでも特に優秀な忍びのひとりだ。佐助が上田に置いてきたと言っていた筈のこの男が、いったいどうしてこのようなところに居るのかわからなかったが、忍びのすることだ。何か幸村の思いも寄らぬ仕事でもあるのだろう。 「どうした」 「幸村様に、言伝を預かってまいりました」 「某に?」 平生ならば、まず何事も長である佐助を通して幸村に伝えられる筈である。いったいどのような言伝かと身構えたのだが、小助の口から出てきたのは、 「わたしも早くあなたに会いたいです」 の一言だった。 小助の言葉の意味がわからず、目を瞬かせる。会いたいなどと…今、こうして会っているではないかと答えると、この忍びは喉の奥でくつくつと笑いながら違うと言った。 「水茶屋の娘からです」 「…殿、か」 「幸村様からのお手紙を渡したところ、お返事を、と」 「そうか」 「ついでにもうひとつ。殿は文字が読めないようでしたので、俺が代わりに読んで差し上げました」 「…!」 悪戯っぽく笑う小助の顔を見て、幸村は必死に手紙の内容を思い出した。大丈夫な筈だ。読まれて困るようなことは何一つ書かなかった…筈である。 「殿に会えずお寂しゅうございますか」 「…なっ!!」 お前、と幸村は唇を戦慄かせた。小助はまるで気が付いていないふりをして、「長から聞いておりましたが、なかなかよい娘ですね」などと笑う。佐助、あの男、小助にまで言うておったのか。となると、最早才蔵も含め他の忍びの者達にも知られているということになる。 佐助め、と拳を奮わせる幸村を見て、小助はますます楽しそうに笑った。それがまた頭にきて、忍びとはもっと口の堅いものなのではないのか、だの、大体小助がなぜそのようなことをする必要がある、だのと喚いていたのだが、忍びの次のひとことでまた大人しくなってしまった。 「あの娘も、寂しい思いをしていることでしょう」 「……」 「もう十日もすれば、上田に戻れましょう」 「……そうだな」 結局のところ、一月で戻ることは出来なかったが、もうすぐ上田に戻ることができる。そうしたら、一番にあの娘に会いに行こう。笑ってくれるだろうか。それとも、泣いてくれるだろうか。どちらでもよい、の顔を見られるのであれば。 ふ、と頬を緩ませて、袂の中の櫛を確認する。 「気がはやって、今夜にでも屋敷を飛び出してしまいそうな顔をしていらっしゃいますよ」 と笑い混じりに言われて、そのようなことはせぬ!と返した大きな声に、庭の鳥が慌てて飛び立つ音がした。 <<< >>> (080407) |