一月で戻ってみせよう。そう言った自分の心は偽りではない。だがしかし、結局のところ己のみの力では一月ばかりで北条の守りを突き崩すことなど出来よう筈もなく、気が付けばとうに一月など過ぎ去ってしまっていた。今や虚勢を張るばかりで実の伴わぬ北条自体は、最早武田の敵では無いと言って良い。だが、これまで北条を長きに渡り守り抜いてきたその城と将、そして兵卒は流石に固く、容易に切り崩すことは出来なかった。
幸村も含めその守りの固さに焦りを抱き始めた兵士も居た。だがしかし、最終的にはお館様の一言でそのような不安など一瞬にして吹き飛んでしまった。

このひとに付いて行けば、なにもかもがうまくゆく。燃え盛る炎のようであり、動かぬ山のようである己が主を見ると、誇らしさと、そしてそのような主君に巡り合えた己の幸福に幸村の胸は溢れそうになるのだ。

戦いの予感に騒ぐ空気、張り詰めた糸のような、砥がれた刃のような時は、幸村に武人としての己の本性を思い出させる。己が無二の主である甲斐の武田信玄は武断の将であるが、ここ最近は目立った戦も無く、幸村も己が腕を持て余しているところがあった。久方振りの戦いの音色に、胸が高鳴る。
上田のことは、信のおける者達に任せている為心配はしていなかった。戦となると他のことが目に入らぬようになる幸村の性質を熟知している者達だ、おそらくは最初から期待もしてはいないだろう。



「流石に固いね」

「良い将が揃っておる。そうでなくては詰まらぬ」



まあ、総大将はアレだけどね。
いつもの派手やかな服装ではなく、彼らしくない、つまりは忍びらしい闇色の装束を着た佐助が、両手を挙げて少し呆れたような声を出した。この、夜に溶ける色の装束に身を包む佐助は、こうして声を聞いている間ですら、気を抜くとその存在を見失ってしまいそうな程に気配が薄い。戦が近付けば近付くほどに、その傾向は顕著であった。
忍びの言葉に、心の中でのみ賛同する。良い将が揃い、素晴らしい領土と城があっても、それを率いる者の力が及ばなくては意味が無い。



「三、四日の内に、出ることになりそうだ」

「うむ」



北条も疲弊している。最早策は無用。一度は同盟を組んでいた相手だ。なればこそ武田の総力を挙げて攻め落とす。そう触れがあった。
「ま、表向きにはそう言ってるけど…結局、策を巡らす必要も無いってことかな」
北条の守りは、確かに固い。だが、武田が真実その力を持って押し流そうとすれば、流石の小田原とてひとたまりも無いだろう。



「まあ戦が終わっても、すぐには上田にも帰れそうに無いね」

「そうであろうな」

「……気にならない?」

「何がだ」



先程までの、希薄な戦忍びとしての佐助が消え、にやにやとどこか不快な笑みを目元に浮かべながら、忍びは口を開いた。その様子に悪寒を感じて、幸村は眉を顰める。



「一文を預けたあの娘のことですよ」

「!!!」



幸村は目を見開き、お、お前、知っておったのか…と唇を戦慄かせた。忍びは、ふんと鼻を鳴らして、だから旦那のことで俺様が知らないことなんて無いんだっつの、と得意そうに笑う。この忍び、全く食えぬ男である。



「さっき、定期連絡が来ててね」

「して、上田の様子は」

「変わりなし。旦那が居ないから食費が助かってるってさ」



戦の間であっても、上田にいる真田忍びから定期的に連絡が入る。佐助は幸村と違い戦のことだけに感けるようなことはしない。軽口ばかり叩いているようで、やるべきことは決して怠らぬこの忍びの働きを、幸村は頼もしく、そして誇らしく思っている。……こうした余計な気を巡らすところは好かぬが。



「……それで、殿は」

「…知りたいー?」



ぎ、と目に力を入れて忍びを睨むと、おー旦那こわ!と大袈裟に身を震わせて、佐助はくつくつと笑った。
はやく申せ!と苛々しつつ催促する。



「別に変わりなし、だってさ。至って元気」

「そうか」

「他の男の手も付いてない」

「そのようなことは聞いてはおらぬ!」



全く余計な佐助の一言に噛み付くように言いながらも、心の中で安堵している自分が居た。そうか…と独り言ちながら遠く上田の地に居る娘のことを思い出す。
「そんでさ、これ」と言って忍びが何かを差し出したのにも、暫く気が付かなかった。



「旦那ァ。聞いてる?」

「あ、ああ。…何だこれは」

「紙と筆。すぐ書いて」

「何のことだ」

「連絡担当の忍びがもうすぐ上田に戻るから。素早くさらっと書いちゃって」

「だから、何をだ」



手紙だよ、手紙!と呆れたように言う佐助に、幸村はわけがわからず目を瞬かせた。



「もうすぐ決着が着くかもっていったって、すぐに上田になんて戻れないだろ。心配してるぜ、きっと」

「…そうであろうか」

「そうさ」



出立の前日、己のことが心配なのだといってぼろぼろと涙を零したの姿が脳裏に浮かんだ。一月で戻ると言っておきながら、未だ戦は終わってはいない。
己を心配して、また涙を流しているやも知れぬ。そうして、どんな理由であれが自分の為に涙を流してくれることを、不謹慎だと理解はしつつも喜ばしく感じる自分が居る。



「ほら、書くならすぐに書く!書かないなら筆と紙しまってくるから」

「書く!」

「あんまり長くなくていいから、さらっとね。あっちも急いでるから」

「そう急かすな」



紙を見つめながら、一体何を書いたら良いのかと頭を悩ませる。風邪をひいてはおらぬか。寝坊などしてはおらぬか。おりん殿に新しく習うと言っていた菓子の出来は。
うんうんと唸る主の姿を見て、佐助が眉を下げて微笑む。



「五文しか無いんじゃ、川も渡れないねえ」

「ああ」

「死を恐れぬ真田の六文銭なんじゃなかったの?」

「川は渡らぬ。必要無い」



紙に筆を滑らせる。のびやかな墨が、白の上を走った。
あの娘に、そして何より己自身に誓った、死なぬ覚悟。いつか散り逝く命だとしても、此処では決して失わない。



「佐助」

「なに」

「某の背、お前に任せたぞ」

「…わかってるよ」



死んじまったら、愛しのちゃんに会えないからねえ旦那。
冷やかす言葉に憮然とした表情を向けると、佐助は声を上げて笑った。







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(080404)