戦がある。三月ばかり、留守にする。
ある朝、唐突に幸村がそう言った。もはや日課と化してしまった夜明け前の短い会話の中で、戦という単語が出てきたのは初めてのことだった。この上田は平和で、火の粉も飛んではこないのですっかり忘れてしまっていたが、そういえばここは戦国時代なのであった。


「いくさ、ですか」


言い慣れない、聞き慣れない言葉を口に出して、は押し黙った。いくさ、戦。テレビで、書籍で、知識として知ってはいるものの、実際にそれがどんなものなのかは知らない。それはそうだ、戦争なんて関係の無い世界で生きてきたのだから。目の前に、戦にゆくという人がいても全く実感が沸かなかった。ただ、三ヶ月も会えないなんて寂しいなと思っただけ。
いくさに出る、ということがいまひとつ理解出来ずに黙っているを見て、心配してくれているのかと思った幸村が「案ずるな、ただの小競り合いでござる」と言った。

戦に備えてすることがあるから暫く朝に出るのはやめるということと、出立の前に一度店に寄る、ということを伝えて、また幸村は馬を駆って去っていった。その後姿をぼんやりと見つめながら、いくさ、ともう一度声に出したが、その意味はよく頭に入ってこなかった。



その日から、「最近、北条の動きが…」「いやだねえ、また戦がはじまるのかい」といった言葉が耳に入ってくるようになった。もしかしたら、が気付いていなかっただけで、もう随分前からこんな会話が繰り広げられていたのかもしれない。


「戦って、どんなものなんですか」

「あんまりいいもんじゃあないよ」

「……ひとを、殺したりとか殺されたりとか、するんですか」

「まあねえ」

「話し合いじゃあ解決できないんですか」

「…あんた、本当に戦のないところから来たんだね」



近頃じゃあすっかりこっちに馴染んできたようだから、あんたが他のところから来たってことを忘れちまっていたよ、と少し寂しそうな笑顔でおばあさんが笑った。
習慣を崩さぬようにと早起きは続けている。だが先日の言葉どおり、幸村は朝に現れなくなった。少しだけ寂しい。これが三月も続くのか、と溜息が出る。

いくさ、というものが現実味を帯びての前に現れたのは、馴染みの客のある一言からだった。



「おれの親父はな、戦場で死んだのさ」



戦争とは、人が人を殺し殺されることだ。戦国時代なのだし、当然そこで死ぬひとだっているだろう。それを急に身近に感じたのだ。
もし、もしも幸村が戦場に転がる命無き身体のひとつになってしまったら?あの朝を最後に、彼の声を聞くことが出来なくなってしまったら?
その可能性に気付いたとき、どうしようもない程大きな不安がの心を襲ってきた。怪我をするかもしれない。もう会えなくなるかもしれない。

(いやだ…)

朝に薄暗い空を見上げても、昼に団子を捏ねていても、夜に布団の中に潜っていても、その不安は消えることなくの心を苛んだ。











幸村がやっと店に現れたのは、それから何日か経った後の夕暮れであった。久し振りに見た彼の顔に安堵するも、すぐにまた「これからこのひとは戦に行くんだ…」という黒い不安が心を覆いつくす。
気取られぬようにと笑顔をつくるのだが、どこか違和感のあるその表情に、幸村も何かあると気が付いたらしく少しだけ怪訝そうな顔をしていた。



「明日の朝発つ」

「そうなんですか」

「ここの団子も、暫くの間食えぬと思うと少し寂しいな」



毎日食っておったからな、と幸村は破顔した。その笑顔になんとか笑い返そうとして失敗し、は顔を俯かせた。どうしよう。悲しい。



殿…?」



俯いたまま口を引き結び拳を握り締めるの様子に、幸村が少し慌てたように顔を覗き込んでくる。どうしたのだ、という優しい声に、とうとう耐え切れなくなって、ぼろ、と涙が零れた。幸村がもう大慌てで「どっ、どうされたのだ」と問いかけてきたが、一度堰を切ってしまった涙腺は止まることなく涙をこぼし続ける。きっと今、自分はとんでもなく格好悪い。泣きべそをかいた自分の顔を幸村に見られたくなくて、は顔を袖で覆った。



「どこか痛いところでもあるのか」

首を振る。

「そ、某、何かまずいことでも…?」

首を振る。

「ならば、一体どうしたのだ」

首を振る。



殿、と心底弱り果てた様子の幸村の声が聞こえる。ごめんなさい、と震える声で謝った。何度も流れる涙を拭うが、あとからあとから流れ出てきて止まらない。



「……ゆ、幸村さんは、戦に、行くんでしょう」

「あ、ああ。そうだ」

「いくさって、た、戦うところなんですよね」

「いかにも」

「それじゃ、し、死ぬことも、あるんです、よね」

「……そうでござるな」

「…」

「お館様ご上洛の為、何時でもこの命捧げる覚悟に御座る」



静かな、けれど強い肯定の意志を聞いて、ますます涙が溢れる。幸村さんが「お館様」のことを心から思っていて、その人の為に頑張っていることは知っている。だからこそには何も言うことなど出来ず、そのことが歯痒い。



「でも、わたし、は嫌です」

殿…」

「が、がんばって下さいって笑顔でいってらっしゃいって、言いたいけど、でも」

「…」

「怪我したらどうしようとか、いなくなっちゃったらどうしよう、とか」

「…」

「心配で、心配で」



あとはもう、声にならなかった。もうすぐ日が沈もうとしている。帰り路についたひとたちが、ちらちらとこちらを伺っている気配がする。幸村も呆れているだろう。武士の大義と名誉に口を挟むうっとおしい女だと思われているかもしれない。けれど心配で心配でたまらないのだ。自分の知らない、生と死とが当たり前に隣に在るようなその場所に、幸村がいってしまうことが不安で仕方無い。
ややあって、静かな声で名を呼ばれたときも、彼の顔を見ることが出来なかった。



殿」

「…う…」

「こちらを、向いてくだされ」



肩にそっと触れられて、はようやく濡れた顔を上げた。幸村がそれを確認して、おもむろに首に下げていた飾りをはずし、それをの目の前に見せた。ぷらぷらと揺れる貨幣と幸村との顔を見比べながら、はかすかに首をかしげる。



「これは某の覚悟の証。三途の川の渡し賃だ」

「…渡し賃?」

「そうだ。大義のためお館様のため、決して死を恐れはせぬという覚悟だ」

「…」



それはつまり、いつ死んでもいいように、渡し賃を首に下げているということだろうか。またしても悲しくなって、の目に涙が溢れた。そのの様子を見ながら、幸村はその六つの貨幣を繋ぐ紐を解き始める。そうして、何事かと幸村の動きを見守っていたの手に、六つのうちの一枚を握らせた。また幸村の首に戻った貨幣は、五枚。


殿が、持っていてくれ」

「…へ」


その意図が分からず、は呆然と手の中の少しあたたかい金属を握り締めながら幸村の顔を見つめる。



「死ぬる覚悟ならばこの胸にある。簡単にこの首をくれてやる気など毛頭無いが、戦乱の世なれば、甘い言葉は言わぬ。」

「…」

「某とていつ何時、何処の戦場に果てぬとも分からぬ。だが此度の戦では、死なぬ」

「…う、」

「その一文は、某の死なぬ覚悟にござる」



殿に、受け取って欲しい。そう続けて、幸村は一文を握り締めたの手を、上からそっと包んだ。あたたかい、血の通った人間の手。生きている、手だ。

「三月とは言わぬ。一月で戻ってみせようぞ。それはその時に、お返しくだされ」

その手で包んだまま、幸村はそっとの頭に自分の額を寄せた。重ねた手の中で、硬質な、たった一文が、ひどく重く強いものに感じられた。







次の朝、城から出てゆく軍勢を見送りながら、はその様子に圧倒された。
たくさんの鎧姿の者達の中にあって、馬に跨る幸村の姿は殊更目をひくものだった。
伸びた背筋にまっすぐに前を見る瞳。あれが戦国武将、真田源二郎幸村。団子を頬張る彼を思い出して別人ではないかと思う。

目の前を過ぎる軍勢は生気に満ち溢れ、馬上の幸村からは静かな闘志が伝わってくるようだ。その姿を見て、先日までの不安がまったくの無駄であったような気分になる。

大丈夫だ、このひとならば。


遠ざかる赤を目に焼き付けて、はぎゅうと手の中の一文を握り締めた。






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(080404)