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夢みたいだ。 目の前で馬に跨る青年を見て、は心の中で幾度目かの呟きを洩らした。 朝、いつも目の前を風のように駆けてゆく青年。 彼が水茶屋に頻繁に訪れるようになってからも、朝の風景だけは変わらなかった。 薄暗い朝を走る幸村は、茶屋での時のようにこちらへ向かって微笑みかけたりはしてくれないし、言葉を交わすことも、挨拶をすることもない。 もしかしたら、が此処に立っていることも気付いていないのかもしれないと思っていた。 それでも全く不満は無かった。むしろ、気付いていない方が都合が良い。 その方が、なんの気兼ねもなく彼の姿を見つめることが出来るからだ。 店に来てくれた時はそうもいかない。お客は彼だけではないのだし、そうじぃと見つめていては失礼にあたるだろう。 だが。 「精が出るな」 この日、いつものように目の前を駆け過ぎるかと思った幸村が、馬を止めて話しかけてきたのだ。 は心底驚いた。それはもう箒を取り落とす程に。 「おはようございます。毎朝、お疲れ様です」 「殿も」 馬上から微笑む幸村に、知らず胸が熱くなる。 きっと、以外にも幸村に対し同じ憧れを頂いている娘も多いだろう。 頻繁に町に下りてくる上に、この整った顔に城主という肩書き。そりゃあ、惚れる娘が居ないほうがおかしい。 「毎朝、このように早くから支度をするとは感心するな」 「気付いてらしたんですか」 「いつも、この時分に外に出ておるだろう」 毎朝通る路であるから、気付いておった。 そう言って幸村は目を細めて口の両端をかすかに上げた。 ということは、毎朝惚けた表情で通り過ぎる幸村を見ていたことも、全部知っていたということだろうか。 それは恥ずかしい。 何せ、自分でもそれとわかるほどに締まりのない表情になっていただろうと思うからだ。 幸村と言葉を交わすことが出来るようになって後は、朝に彼を見つめる目に益々熱が篭もった。 内心悲鳴を上げながら、「そ、うですか…」とは顔を赤くして俯いた。 さらに、「あれだけ見つめられていれば、嫌でも気付く」と笑い混じりに言われてしまい、ますます身を縮ませる。 ああもう、穴があったら入り込みたい、その上から土をかけて欲しい。 「実は、な」 俯く頭の上に、幸村の声がかかる。 何かと思って見上げると、幸村がどこか思いつめたような表情をして、こちらを見つめていた。 口を少しだけ開き、また閉じる。何かを言おうとしているのだと理解して、彼が言葉を発するのを待った。 遠くで、雀の鳴く声がした。 「…そなたがいつも、この時分に出ておることは知っておった」 「はい」 「だから、」 「はい」 「……だから某も、この時分に此処を通るようにしていたのだ」 ちゅん、と今度はごく近くで雀が鳴いた。 瞬きをしながら、耳に入った幸村の言葉を考える。 それは、つまり。つまり。 幸村の言わんとすることを理解して、ぼう、と一気に体中の血が頭に巡ってきたような感覚に襲われた。 それに畳み掛けるように、幸村が「某も、毎朝そなたを見ていたのだ」と言うものだから、もうどうしようもなくなってしまった。 口の中が渇く。 いつから?最初にお話した時から?それとも、もっと以前から? 「さ、真田様、」 「幸村でござる」 「え?」 「様、と付ける必要も無い。ただ、幸村と」 そう呼んでは下さらぬか、と眉尻を下げてはにかむように微笑みながら、幸村は言葉を続けた。 幸村の耳が少しだけ赤く見えるのは、あの明けゆく太陽の所為だろうか。 間違いなく、の耳も赤くなってしまっているだろう。 だがそれは、太陽や空の所為ではない。 「幸村、さん」 「殿」 また、そなたの団子を食べに行く! そう言うと、目覚めようとする太陽よりも眩しい笑顔を見せて、幸村はそのまま手綱を引いて馬の腹を蹴った。 やって来たときと同じように、あっという間にその姿は見えなくなった。 彼の姿が見えなくなっても、暫しその方向から目を離す事は出来なかった。 幸村さん。 なびく茶色い尻尾のような髪と、あの笑顔と声とを思い出しながら、口の中で幾度もその名を呟く。 ゆっくりと朝が焼けてゆく。錆浅葱の空が明ける。 空と同じように、この心の中で焼けていく感情は、一体どういう名前なのだろう。 <<< >>> (080331) |