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幸村は、城下に下りるのが好きだった。 お館様に上田を任されて後、国を町を人を治むる、ということがどれ程大変なことかわかった。 勿論、未だ未熟な幸村ひとりの力では、到底治めきれるものではない。 古くより真田に仕えて来た武将や、武田の者達と力を合わせてやっとというところだ。 考えが煮詰まったとき、政務に飽きたとき、こうして城下に下りるのだ。 どんなに気落ちしたときでも、町の喧騒や人の足音、声、表情、そういったものを見ると、心にかかる迷いが晴れる。 この者たちを守り、導くことこそが我らの務め、と決意も新たに城に戻ることができるのだ。 始めの頃は、幸村が城下に下りようとする度に「ちょっとまたあんたは!散歩は後にしろって言ってんでしょ!」と怒鳴りつけていた忍びも、この頃は幸村が町に下りる真の意図を感じ取ったのか、「夕飯前には戻ってきてよ」と容認するようになった。 勿論、思い切り羽を伸ばす、という意味合いもあるのだが。 「今日は降ると思うから、傘持って行ってよ。俺様迎えに行くの嫌だからな」 こそこそと城から出ようとする幸村の前にどこからともなく現れて、佐助が赤い傘を差し出したのは午を大分過ぎた頃だった。 もう何年もの付き合いだというのに、幸村は未だにこの忍びの気配を捉えきれない。 そのことに苛立ちもするが、それ以上にこの忍びを誇らしく思う。 こうして、音も無く突然現れることにも慣れた。 傘を手に取り、青く晴れた空を仰ぎ見る。どう見ても、これから降り出しそうな天気ではない。 しかし、未だかつて忍びの勘は外れたことはないのだ。 幸村は素直に頷き、「では行ってくる。夕刻には戻る」と言って城を出た。 暫しのんびりと城下を散策して、さあそろそろ…城に戻ろうとしたところで、急にどっと雨が降り出した。 先程まで晴れていたのに、あっという間に空が陰り、この有様だ。あの忍びの勘は、今日も外れなかった。 夕刻も近い町が、俄かに騒がしくなる。 荷物を頭の上に乗せて走る者、軒下で雨を防ごうとする者。 それらを見ながら、幸村は佐助に持たされた赤い傘を開いた…ところで。 「!!」 幸村は一瞬肩を強張らせた。 少し先の、着物問屋の軒下。風呂敷包みを抱えながら、眉を顰めて空を伺う娘の姿が見えた。 あの、水茶屋の娘だ。 丁字染矢鱈縞の着物に赤の襦袢が濡れてわずかに色を変え、髪もしとりと落ちている。 灰色に染まった空を見上げながら、困ったように眉を寄せたその表情。 雨のせいではなく自分の汗で、掌が湿るのを感じながら、 (ど、どこか身を隠すところを) と、暫し辺りを見回していたが、姿を隠すのも可笑しな話だと思いなおし、ぎゅうと傘を握り締めた。 そうだ、何を躊躇うことがあろうか。 近頃では、小姓や佐助に頼むことをやめ、自らの足であの水茶屋に行くようになった。 最初こそ恐縮しきったように身を縮ませていたであったが、何度か足を運ぶうちになんとか話も出来るようになった。…交わす言葉は二言三言であるが。 とはいえこれは、驚くほどの進歩であろう。 は、なにか急ぎの用でもあるのか、落ち着かない様子で空を伺っている。 幸村も同じく傘の向こうの空を伺ったが、これは暫く止まぬだろう。 そこで、ふと幸村の頭の中にある考えが浮かんだ。 (某の傘に殿を入れてやり、送り届ければよいのではないか) そうだ、それが良い。 決してやましいことはない。雨に立ち往生している町のおなごを助けるだけのこと。 一度決めたら、幸村の行動は素早かった。元来そういった性質の持ち主である。 先程までおろおろと身を隠すところを探していたというのに、今度はしっかりとした足取りで娘の居る軒下へと近付いていった。 「あ…」 がこちらに気付いて目を丸くする。ぱか、と開いた口から声がこぼれる。 次に、少し上ずった声で「こっ、こんにちは」と勢いよく頭を下げた。 その拍子に、持っていた風呂敷包みを取り落としそうになり慌てて抱えなおす姿に、自然と笑みが漏れる。 「急に降り出してきましたな」 「はい、あんなにお天気良かったのに…」 雨が降るなんて思いませんでした、とまた空を見やって、が溜息をついた。 くるくると表情の変わる娘だ。 「真田様は、わかっていらしたんですか?」 「なにをだ?」 「今日降るかもしれないってこと…」 己の傘を見上げながら、ああ、と幸村は眉尻を下げた。 「城に、そういったことに勘のよい者がおりましてな。その者が持たせてくれたのだ」 「そうなんですか…いいな、わたしにもそんな勘が働けばよかったんですけど」 「某も、その者がおらねば同じく雨に降られておった」 じゃあ同じですね、とにこやかに笑うにつられる。 の頬はほんのり赤い。 雨のせいか、いつもは大人しく垂れ下がっている黒い髪が、少しはねて顔にかかっていた。 無意識のうちに手を伸ばし顔にかかる髪をどかしてやると、ほんのり赤かったの頬がますます朱に染まりその顔が俯いてしまった。 それを見て、無意識的な動作であった筈なのにこちらも気恥ずかしくなってしまい、慌てて手を離す。 気まずい沈黙が流れた。 「と、時に殿、これからどちらへ?」 「あ、ええとおばあさんのお使いも終わったところなので、お店に帰ろうかと」 「そうか。…だがこの雨、暫し止みそうにないな」 「そうですね。やっぱり濡れるの覚悟で走るしか…」 「某が送ってゆこう」 え、という間の抜けた声とともに、曇り空を見上げていたの顔がこちらを向く。 「いや、某は丁度傘を持っておるし、どちらにしろ茶屋は城への帰り道であるし…」 と、送る理由をやたらめったら並べ立てる。ぎゅう、と強く握り締めた傘の柄が軋んだ。 迷っているような表情をするを見つめる。 ここで断られたら、ならばこれをと言って傘を渡し、城まで一直線に駆け戻ろうと思った。 だが、暫しの沈黙の後、は上目遣いにこう言った。 「ご一緒しても、いいんですか」 「は…勿論でござる!」 じゃあお願いします、と言ってが傘の中へと入ってくる。 幸村は身体を凍りつかせた。予想以上に近い。 だが、近いなどといって距離を離してしまえば、の身体が雨に当たる。 気付かれぬようにごくりと唾を飲み込み、努めて冷静を装って「では行くぞ」と歩き出した。 雨の音が足音すらかき消す中で、気配に敏感な己の感覚が、の吐く息までもを拾う。 触れそうで触れない腕がむず痒い。 この時ばかりは、自分の冴えた感覚を呪った。 は俯いたまま顔を上げない。一言も発しない。 こんな時になにを言えば良いかなど、誰にも教わったことがない。 何かを言おうとして口を薄く開き、また引き結ぶという動きを二、三度繰り返した後、の肩がほんのすこしだけ傘から出て濡れているのが目に入った。 すい、と腕を伸ばしの肩を掴む。 「もう少しこちらへ」 と言って引き寄せると、林檎よりもまだ赤いような顔をしてが小さく「有難うございます」と声を発した。 その後は、また二人で黙り込み、一言も発せぬままに茶屋へと着いてしまった。 緋毛氈は既にしまわれており、深い木のいろをした縁台を雨が叩いている。 この雨のせいか、今はひとりも客がいない。あの老夫婦も、奥に下がっているようだ。 が傘から出て、すい、と店の軒下に入る。 先程までが居た右側が、急に空虚になった。 「どうも有難うございました」 「いや」 「…あ、肩」 幸村の左肩を指差して、が口元に手を当てた。 見ると、左肩が雨を吸って黒く変色していた。右に居たに意識を集中し過ぎていた所為であろうか、ここで言われるまで全く気が付かなかったというのだから自分もどうかしている。 「すみません、わたしが入ったからですよね…!いま手拭いを」 「構わぬ。そなたが濡れておらぬのなら、それで良い」 「え…」 「あ、いや!ではこれにて、御免!」 後ろで、「あ、真田様!」とが声を上げたが、それにも構わず雨の中を走り出した。 足に冷たい泥が跳ねる。 初めて触れた、あの娘の肩は細く頼りなかった。 真田のくのいち達とはあまりにも違う。 おなごの身体というものは、あんなにも柔らかく脆いものだっただろうか。 雨の雫が、熱くなった頬を叩く。 こんなに袴に泥を跳ねさせては、佐助がまた口喧しく説教をしてくるだろうと思ったが、どうにも止まらない。 走るふたつの足と同じくらいの速さで、胸の奥がどくどくと音を立てていた。 <<< >>> (080331) |