、オールブルーって知ってるか?」

日に焼けて茶色くなった本の1ページのような、おぼろげな記憶。
を抱いた太い腕には、黒い刺青が入っている。
たっぷりと髭を蓄えたその男は、父、というのただひとりの家族だった。
輝く海を見せながら、父は言う。子供のように目を輝かせてこう言うのだ。


「この世の海の全ての食材が揃う海だ」


食材って、魚のこと?
小さかった自分は髭をひっぱりながらそう聞いた。父は笑いながら「魚だけじゃない、すべてだ」と言った。
一体どこの船だったのかも、もう覚えていない。ただ父はその船のコックで、いつもたくさんの美味しい料理をに食べさせてくれた。


「皆はそんなものは無いというが、父さんはあると思う。いや、絶対にあるんだ」
「あるの?」
「そうだ。いつか父さんが見つけてやるのさ」


父が見遣る先には、はるかに続くサファイアブルー。パールホワイトの波を散らして、海が宝石のように見えた。
海の中に見える大きな魚が、ルビーやエメラルドの鱗を翻す。
こんなに美しいものが全て集まった海とは、いったいどんなところなんだろう。


にも見せてあげよう、な」


父が笑う。も笑った。
色あせた記憶の1ページ。
自分の人生のなかで一番輝いていた瞬間。




ぱちん、と無慈悲に夢は破られて現実がやってくる。幸せな夢を破ったのは、いつもの副料理長の大きなだみ声だ。
「おい、いつまで寝ていやがる!仕込みの時間だぞ!」
階下からは人の動く音が聞こえてくる。こうしてまた、にとっての日常が始まるのだ。

レストラン、オールブルー。

が住み込みで働いている、レストランの名だ。
サウスブルーでもこの島周辺の海の食材しか扱っていないくせに「オールブルー」を掲げるとは傲慢な、とはいつも思っているが、そもそも島の人間はそれ以外のものなんて食べたことがないから関係ないのだろう。

大きなあくびをひとつ漏らして、長い髪をひとつに纏める。
さあ、今日も地獄の始まりだ。



「…はぁ…」

にとっての地獄の時間。その名も野菜の皮むきだ。
この野菜の皮むきをやり始めていったい何年が経っただろうか。
小さなころ父親からこの店に預けられてからずっと、はこの野菜の皮と向き合う日々を送っている。

最初のうちは見習い期間だと諦めていたが、と同じく見習いのコックたちが次々に厨房に上げられていくなかで、ひとりがいつまでたっても皮むきから先に進ませてもらえない理由に気付いたのは、皮むきを始めて3年が経ったころだった。


「おい、何やってやがる!芋は終わったのか!」
「終わってますよ!そこの篭のなかー」
「次は人参だ!さっさとやれよ、海賊の娘を置いてやるような寛大な店はここくらいなんだからな!」
「はいはい!」


そう、が海賊の娘だったから。
幼いには分からなかったが、をひとり残して海に消えてしまった父は、海賊船のコックだったらしい。

長い歴史の中で海賊の襲撃により一度滅ぼされかけたこの島の人間達は、海賊をひどく毛嫌いしていた。もちろん、その襲撃を体験した人間なんてほとんど生きていないけれど、親から子へ、子から孫へとその「海賊嫌い」はきっちりと受け継がれている。
レストランのコックたちも例外ではなく、が海賊の血をひいているということをあちこちに言いふらすようなことまではしないけれども、決していい顔はしていない。
をいつまでたっても厨房に上がらせないのも、そのせいだ。

しゅる、とオレンジ色の人参の皮が落ちる。
見慣れた光景。の一生はおそらく、この皮のように呆気なく味気なく終わるに違いないのだ。
そう、思っていた。
街の人間の劈くような悲鳴が聞こえる、あの時までは。






「おい、海賊船が来たぞ!!!」


港から息を切らせて走ってきた男の一言で、町は混乱の渦に巻き込まれた。
その日は、この季節にしては珍しく暗い雲のかかった日だ。まるで悪魔の襲来を告げるかのようなその天気も相まって、街の様子はさながら地獄絵図だった。
海賊嫌い、とは言いつつも本当に海賊を見たことなんてない人間達なのだ。
まるで災害に見舞われたかのような混乱には、思わずも笑ってしまった。


「笑ってる場合じゃねえぞ、!」
「すいません」
「俺達はいったん自宅へ戻る、心配だからな。お前は…」
「わたしんちは此処なんで。お留守番してますよ、しっかり」
「頼んだぞ。今日は店も開けん」
「はあーい」


ひらひらと手を振りながら、料理長を見送る。他のコックたちも、荷物をまとめて一時避難を始めた。海賊ひとつに騒ぎすぎだ、と思ってしまうのはが小さな頃海賊船に乗っていたからなのか、それともやはり自分が異常なのか。

どちらにしろ、には好機だった。
休日、夜中。まかないは別として、そういう時にしかが厨房を使える時間がない。
今日は店を開かない、ということはこの店を使い放題だということだ。
騒がしいコックたちを尻目に、はひとり勝ち誇ったように拳を握った。


広い厨房は、突然の海賊の来訪によってにとって楽園へと変わった。
通りの店はどこもかしこも臨時休業の看板を掲げている。
海賊嫌いもここまで来ると天晴れというものだ。しかしにとっては海賊の来訪はまさしく福音となったのだから感謝すらしたい気分だ。
どうせ海賊を怖がったみんなは、少なくとも今日一日を家の中で震えながら過ごすのだろう。

手入れの行き届いた厨房はきらきらと銀色に輝いている。
が使うときはいつも、レストランが閉まったあとの暗い厨房だった。明るく銀色に輝く厨房なんて、夢みたいだ。


「…ようし」


は七分丈の袖を捲り上げて、意気揚々と厨房へ乗り込んだ。








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(090921)