ダンテとは結局そのまま、ろくに話をすることもなく別れてきてしまった。
まだ、完全に荷物の移動が終わっていないけれども、ダンテの居る事務所に取りに行く気にもなれない。
彼も同じ気持ちなのか、荷物は後で送って寄越すと言っていた。


(…広い)


がらんと広い、ペンキの匂いも新しい部屋の真ん中に寝そべる。
室内は、差し込む夕日のせいで暖かいオレンジ色をしている。
しかし床はひんやりと冷たくて、の体温を奪っていった。
壁も天井もぼろぼろ、ダンテの血と悪魔の身体を形作っていた砂で酷い有様になっていたこの家も、すっかり元通りだ。
家だけではなく、の生活も。全てがあの日まで遡ってしまったかのようだ。

自分のために食事を作って、掃除をして、仕事をして、それだけの生活。
ただあの日々と違うのは、この胸の中にある錘のような痛みだけだ。

いつまでもこうして寝てばかりもいられない、時間はどんどん過ぎるし容赦なく明日はやってくる。
とりあえず腹ごしらえでもしよう、そう思って買い物袋の中を覗きこむ。


(あ、トマトジュース忘れちゃった)


買い足しに行こうとジャケットを手にとって、トマトジュースなどもう必要ないことに気付く。
そもそも、はトマトジュースはあまり好きではなかった。
ただ、ダンテが好んで飲むからいつも買っていただけのこと。
ほんの何週間か一緒にいただけの筈なのに、もう習慣になってしまっている。

は視界がぐにゃりと歪むのを感じた。

今まで感じないようにしてきた喪失感、寂しさが一気に胸を襲う。
失って初めて気付く、とは上手く言ったものだ。

あの男が恋しかった。ダンテが、恋しくて恋しくて堪らない。


(これ以上、目を逸らし続けるのは、無理だ)


は手に取ったジャケットを羽織って、そのまま家を飛び出した。















ノックもせずに、事務所のドアをそっと開ける。
デスクに人の姿は無い。が、赤いレザーのソファの影から、ブーツが覗いている。
極力足音を立てないようにして、ソファに近付いた。


「なんだ、。忘れ物か?」


いつもと変わらない、軽い調子の声がした。
ただダンテの声が耳に入ってきた、それだけで胸が締め付けられるような気がする。


「そう、忘れ物だよ」


ソファの前に回りこむと、ダンテは相変わらず赤いコートを身に纏ったまま寝そべっていた。
あの青が伏せられているのがもどかしい。心の中でこっちを見て、と思ってもダンテの目は伏せられたままだった。


「わざわざ取りに来なくても、言えば他の荷物と一緒に、」
「取りに来たかったの」


ダンテの頬に手をあてて、ゆっくりを顔を上げさせた。
ダンテはそれに逆らうこともせず、導かれるままにただ視線を上げる。
視線が絡んだ。

普段の自分からはとても想像出来ないが、それはとても自然なことのように思えた。
惹かれる気持ちそのままに、顔を近付ける。
纏められていない髪が、ダンテの顔に降りかかるがそんなことは気にしなかった。
短く触れた唇は、熱いような冷たいような、不思議な温度だった。


「…これが忘れ物か?」
「うん」


ソファに寝そべったまま、ダンテがくつくつと笑った。
立場が逆だな、と言われて確かにそうだと思う。
横たわる姫に王子様がキス、それが定石のはずだが、今横たわっているのは銀色の悪魔でキスを贈ったのはどこにでもいる平凡な人間だ。


「他にもあるんじゃないのか?」


大事な忘れ物が、と言ってこちらを見つめる悪魔の要求は明らかだ。
望み通りに動いてやるのも癪な話だが、今はつまらない意地などどうでもよかった。


「ダンテ」
「ん?」

「好き」


その時浮かんだダンテの顔といったら、おそらく私は一生だって忘れないだろう。
いままで生きてきた中で、こんなに甘くて魅力的な笑顔を浮かべるひとはいなかった。

やっと認めたか、散々てこずらせやがって、と叩く憎まれ口も気にならない。
明日にでも、自宅に移した荷物を全てここに持って帰って来よう、と決めて、は銀髪の悪魔の愛しい腕に身を任せた。




fin