物凄い轟音と共に、砂埃を上げながら幸村が庭に吹っ飛ばされたのは、軍が戦より戻って三日目のことだった。
武田の中でも屈指の、いや総大将を除いてはおそらく一番であろう実力者、真田幸村をこのように吹き飛ばすことの出来る人間は、甲斐中を探しても一人しか居ない。

廊下にも庭にも散った木片や破れた障子を見て、ああこれはまた派手にやった、修理が大変だなどとくすくす笑いながら、それでも久方振りに見た躑躅ヶ崎館の名物ともいえるその光景に、侍女達は目を細める。
同盟を破った北条を攻め落とさんと、甲斐武田の総大将が兵を率いて出立したときには、まだ少しばかり寒さの残る時分であった。
今は咲き誇った桜たちも少しずつ散り初め、緑の葉が顔を覗かせている。
まったくもって、騒がしいですねえと苦言を洩らしながら、城の者は皆笑顔だった。



頬を赤くした幸村が、の元を訪れたのはちょうど八つ時。侍女が作ってくれた餅でもつまもうかと茶を淹れた時だった。
その時間を狙っていたかのように現れた幸村に、口の端が緩む。
「これは丁度良い時に」と嬉しそうに彼も笑った。



「そんなことを言って、最初から狙っていたんでしょう」

「そのようなことは御座りませぬ」

「だって幸村はいつも、わたしがお茶にしようとするとやってくるわ」

「某が訪れる時分になると、姫が茶を淹れ始めるのです」



そんなことない、と言いながらも、そこにはちゃんと二つの茶碗が並んでいる。
向かいに座る幸村にそれを勧めながら、ちらりと彼の頬を見た。
殴られた頬を冷やさずにそのまま来たのだろう。それも全て、予想通りだ。ちゃんと冷やし絞ってあった手拭を、そうっと幸村の頬に当てる。
驚いた幸村は、一瞬びくりと身を引いてから、「かたじけない」と小さく言って後はされるがままになっていた。



「また、殴り合い?程ほどにしないといつか本当に大怪我するよ」

「ご心配は無用にございます。大事ございませぬ」

「普通の人なら大怪我なの」



父上も幸村もちょっとおかしいわ、と言いながら手拭を裏返す。
幸村はその手拭を受け取りながら、今度は自分でそれを頬に当てた。

赤みの残る頬を見て、それにしても珍しいと思う。
父上と幸村の殴り合いはすさまじく、恐らく常人であれば本当に大怪我は免れぬ威力でありながら、これまで幸村が頬を腫らすことなどほとんど無かった。
その彼の頬が、今日、傍目に分かるほどに赤く腫れているのであればそれは、平生よりもずっと強く殴られたということだろう。



「今日は、どうして殴られたの?いつもみたいに、なんの脈絡もなく?」

「何の脈絡も無く、などと…そのようなことは未だ嘗てありませぬ」

「周りから見れば脈絡も何も無いよ、いつも。突然始まるんだもん」

「……今日は、」



少しだけ顔を俯けて、躊躇したように口をつぐんだ。でもそれも一瞬のことで、次の瞬間にはもういつもの幸村に戻り、正面から真っ直ぐにこちらを見返してくる。



「此度の小田原攻めの一番駆け、敵大将の首級、その褒美は何が良いかと問われました」

「いつもみたいに、何も要らないって言ったの?」

「いえ、ひとつだけお願い申し上げた」

「そうなんだ、珍しいね」



幸村はいつも戦の度に褒賞を頂いてはいるが、それらはいつも父上が選んだもので、幸村から何かを望んだりしたことは一度も無かった筈だ。
彼は、物よりも名誉を重んじ、また武田の上洛に貢献できることそのものこそが最上の褒賞だと普段より豪語していることもあり、父上はいつも「あやつは貪欲さに欠ける」だなんて溜息をついている。
その幸村が強請ったものが何なのか、非常に気になった。



「それって何?」

「…言えませぬ」

「えーどうして!……それで、貰えたの?」

「遣れぬ、と」

「えっ」



は、幸村の一言に心底驚いた。
父上は、幸村を目の中に入れても痛くないんじゃないかと思えるほどに、もしかしたら娘であるなんかよりもずっとずっと可愛がっている。その父上が、滅多に無い幸村のお願い事を突っ撥ねたということは、余程の無理を言ったのか。



「何が欲しいって言ったの?」

「…言えませぬが、欲しいのならば己で行ってとってこいと言われ申した」

「とってこれるようなものなの?」

「…わかりませぬ」

「わかんないの?」



幸村は、なにやら難しい顔をして押し黙ってしまった。
少なくとも領地や金では無さそうだ。それにしても、とって来いとは穏やかではない。
しかも、このように幸村が「とってこれるかわからない」なんて弱音を吐くような代物だ。
それがいったい何なのか、でなくても興味は沸くだろう。
けれど、見たところそれが何なのかを幸村が話してくれる気配は無かった。



「じゃ、諦めるの?」

「諦めませぬ。そもそも、それをお館様にお願いしてしまったことが間違っておったのです」

「そ、そうなの」

「取って来い、とは取っても良いということで御座いましょう」



なれば、全力で勝ち取りに参ります。
そう言って、幸村はこちらがどきっとするくらい真剣な顔をする。
なんかよく分かんないけど、頑張って。そう声をかけると、幸村は力強く「無論!」と頷いた。














幸村とそんな話をした日から、また数日が経った。
あれから、幸村は何かというとの元へ会いに来る。前からよく来ると思っていたけれども、近頃は日に二度も三度も会いに来たりするのだ。
そんなに来て、幸村ってば暇なの、と聞いてみたこともある。
けれど彼は少しだけ困ったように笑って、暇なわけではないのだが、と言葉を濁すばかりだった。



「それとも、わたし監視されているのかしら。ねえどう思う?」

「そういうわけではないと思いますが…」

「幸村がいつも来るから、わたし最近町にも遊びに行けてないのよ」

「それは良きこと」



歳の離れた、姉のような侍女に文句を言うと、彼女は口元を袖で覆いながらくすくすと笑った。
幸村ときたら、自分が来たときにの姿が見えないと、顔を青くして城中を探し回ったりするのだ。
それが運悪く、が町に抜け出していた時だったりすると、幸村どころか下男下女を巻き込んでの大騒動になってしまう。
一度、麓町へこっそりと遊びに出ていた時などは酷い目にあった。
抜け出していることが父上までに知られ、長い長いお説教を食らったのだ。
父上のお説教の後には、幸村に「年若きおなご、それも武田の姫がろくな供も連れずに町へ下りるなど、言語道断にござりまする!!」と更にお説教されてしまった。もうあんな目にはあいたくない。



「殿方は普通、そう何度もおなごの元を訪れたりは致しませんよ」

「そうだよ、幸村ってば変なんだよ」

姫様に対しては、普通では居られぬということでございましょう」

「普通でいて欲しいよ」



侍女の言葉に、頬を膨らませながら唇を尖らす。
そのまま、ぱたりと畳の上に身体を倒すと「まあ、お行儀が悪うございますよ」と怒られた。



「そういえば、姫様はご存知でしょうか」

「なに?」

「幸村様が、先日お館様にあるお願い事をなさったそうですよ」

「えっ!」



思わず、横になっていた身体を起こし、身を乗り出してしまった。
それは以前、幸村が「取って来い」と言われたもののことでは無かろうか。
胸がどきどきした。



「それが何か、知っているの?」

「はい」

「教えて!」



侍女はにやにやと、人の悪そうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開く。
胸が高鳴るのを感じながら、はその口から知りたかった秘密が出てくるのを待った。









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