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は、早起きというものがとても苦手な人種である筈だった。 いつからだろうか。 早起きを苦と感じなくなったのは。 ある日突然この世界に落ちてきて、運よく優しい夫婦に拾われた。 子供のいなかった老夫婦は、どう考えても夢物語、もしくは法螺話にしか聞こえなかったであろうの言葉を信じて、親切にも面倒をみてくれている。 最初はどうなることかと思ったが、老夫婦がやっている店の手伝いをしながら、なんとかこの世界の生活にも馴染んできた。 こちらの朝は、とても早い。 はじめはとても苦痛だった。 太陽が昇ると同時に起き出すなんて、信じられない。 老夫婦はのその気持ちを察してくれたのか、寝ていてもいいよと優しい言葉をかけてくれたが、まさかそれに甘えるわけにもいかない。 親切にしてくれている彼らの為に、少しでもできることを。 そう思って、せめて朝だけは彼らよりも早くに起きて、朝ごはんの準備やら、自分に出来ることをするのだ。 …と、いうのが表向きの早起きの理由。 でも、本当の理由は別にあった。 薪を取りに、表へ出る。 辺りは少し薄暗い。まだ朝日は出ていない。 の胸は、とくとくと小さく、少しだけ早く鼓動を刻んでいた。 遠く、霞んだ道の先を見つめる。 この道の先にはお城がある。上田城、というのだと老夫婦が教えてくれた。 朝、太陽が目を覚ます少し前。 この道を、お城からまっすぐに駆けてくるひとがいる。 栗毛の馬にまたがって、風のように。 尻尾のように流れる髪の毛と、きりっとした目元が印象的な男の人だ。 初めて彼を見た時のことを、今でも覚えている。 風と葉と砂を巻き上げて走る馬上、彼の姿がまるでスローモーションのように見えた。 まるで、小説の一場面のような瞬間だった。 あの日から、は毎朝、太陽が昇る少し前の時間を選んで表に出るようになった。 多少の時間のズレはあるけれど、彼は毎日のように馬に乗ってここを走り去る。 一体、どこにいっているかは知らない。そして、いつお城に戻っているのかも。 ただ一瞬。 朝の入り口、薄暗い空の下で、一瞬だけ見ることのできるひと。 たぶん、下級生が格好いい部活の先輩に抱く憧れとか、そういうものに近い感情だ。 苦痛だった筈の早起きは、彼の出現によって、何よりの楽しみになった。 (まだかな…) 薪を両腕に抱えながら、お城へと続く道を見る。 暫くそうして眺めていたが、一向に現れる気配はない。 今日はもう来ないのかもしれない、そう思って家の中に入ろうと踵を返した。 がっかり。自然と肩は下がり、溜息が口から薄く零れ落ちる。 その時、馬の軽やかな足音が耳に届いた。 ばっ、と機械でできた玩具のように振り向く。心臓が高鳴った。 (きた…!) 朝の霞を切り裂くように、彼がやってきた。 馬の蹴り上げる砂埃が、一瞬遅れて彼に続く。 小さく見えていたその姿が一気に近付き、彼は今日もまた風のようにの前を走り抜けた。 その、一瞬。 ちらり、と彼の目がの姿を捉えた。 (!!) どくん、と心臓が大きく打つ。 通り過ぎる瞬間、ほんの一瞬の出来事。 もしかしたら、の勘違いかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。 (い、今、目が合った…!?) ぼう、と顔に熱が篭もるのが自分でもよくわかる。 そんなまさか、目が合ったくらいで大袈裟な!落ち着け、落ち着け! と、五月蠅い心臓を宥めてみたが、どうにも止まらない。 あの目。 ずっと横からしか見えていなかったあの目が、今日、今さっき、こちらを向いた。 たぶん、彼は覚えていないだろう。町ですれ違っただけの娘のことなんて。 ただ目が合った(かもしれない)というだけで、こんなにはしゃぐなんてみっともない。 …と、頭では理解していても、心はそう簡単に納得してはくれないものだ。 頬が緩んで、口元がだらしなくにやけてしまうのを止めることを諦め、は薪を抱えなおして家の中に入った。 足音は軽い。肺に入る朝の空気は、冷たく冴えて、少しだけ甘いような気がした。 明日も、また見れるかな。 また、こっちを見てくれるかな。 胸がきゅうといっぱいになった。 あの一瞬の邂逅のために、今日もは、太陽よりも少しだけ早く起きる。 >>> (080328) |