船長は、下唇を噛む癖がある。
がそれに気付いたのは、随分前のことだ。には難しすぎて理解できない分厚い革の本を読んでいる船長をぼーっと眺めているときに、ふと気がついた。
本を読みながら、下唇を緩く噛んだり、舐めたり。
本人はどうやら気付いていないようだが、その癖は特に船長のお勉強の時間によく現れる。
その所為で船長の唇は荒れ、硬くなった薄い皮が剥けていた。
それが気になるのか、無意識のうちに触るものだから始末が悪い。剥けた皮をひっぱれば血がにじみ、それを舐めるうちにまた唇が荒れる。
大変な悪循環だ。


「船長って、唇噛みますよね」
「あ?」
「癖」


いつものように、船長の読書時間を邪魔しにやってきたは、ついにその癖を指摘してやった。
船長は少しだけ考えたあと、自分でも思い当たる節があったのか「ああ」と一言だけ返事をした。


「自分で気付いてましたか?」
「いや」
「痛くないですか?くち…」
「別に」


素っ気無い返事しか返って来ないのは読書に忙しいからだと思い込みたい。
(この間出立した島の本屋がすごく品揃えが良かったようで、船長は島にいる間中機嫌が宜しかったみたいだ)
くだらねえ用事なら話しかけんなつまみだすぞというオーラを隠しもせず、船長はそれきり口を閉じた。


「なんか見てて痛々しいんですよね」


船長の唇をみているとなんだか自分の唇の荒れまで気になってきて、は腰に下げた小さなバッグからリップクリームを取り出して塗りつけた。
にせものの薔薇の匂いがするそれは、すうと伸びて薄く膜を張り唇を外気から遮断する。

しばらく時計の音と海の音以外の一切が消える。ぱら、とページをめくる手を眺めながらはずるずると這い上がる睡魔を感じた。
ちらと視線を上げて船長の顔を見ると、赤い舌がまたしても荒れた唇を苛めていた。
薄く剥けた皮の底から、うっすらと滲んでいるのは肉の色か。


「船長の唇みてると、自分の唇まで痛くなってくる…」


船長は返事もしない。本の世界に入り込んでしまっているようだ。
彼がを無視するのはいつものことだ。悲しいことに、船長のシカトには慣れっこだった。
先程自分がつけたリップクリームを取り出し、船長が座っているソファに近付いた。
特に場所を空けてくれようという配慮はなかったが、狭いソファの端っこに無理矢理身体を捻じ込ませる。
船長の目がちらりとを捉え、眉が迷惑そうに歪められた。


「おい。邪魔だ」
「船長船長、リップ貸してあげますよ」
「いらねえ」
「そのまま本読んでてください、わたし塗ってあげます」
「いらねえっつってんだろ」


船長は苛々と眉間に皺を寄せながら、わたしの顔に手を突っ張ってぐいぐいとソファから落とそうとした。
だがそんな暴力に屈するではない。
開けたリップからにせものの薔薇が香る。ぐぐ、と力に負けないようにとリップを持つ手を伸ばし、船長の唇へ近づけようと奮闘した。


「出て行け」
「やだ!船長の痛々しい唇のケアはわたしが!」
「余計なお世話だ」
「負けんー!」
「…めんどくせェ女だな」


ち、と舌打ちの音がしたと思ったら、ぐいぐいと押されていた力が不意に反転した。
ぐい、とリップを差し伸べていた腕が引かれる。
引き離す力から引き寄せる力への転換に対応できず、わたしはバランスを思い切り崩した。
倒れないようにと手をついた先には船長の太股。締まった硬い感触が手に伝わり、心臓が跳ねる。
だが一番の問題はそんなことではなかった。

急に、焦点が合わないほどに近付いた船長の顔。
ぬるい吐息が唇にかかり、は咄嗟に目をつむった。

心臓が早馬のごとく駆ける。
も もしかしてこれは、この展開は、と頭がありえない桃色の展開を予想して頬に血が集まったのを感じた。
だが、かちかちと時計の音が5回ほど鳴っても特になんの変化も感触もない。
は恐る恐る、目を開いた。


「なあ、


しかし焦点も合わないほど近くにあったのはやはり船長の顔。
彼が声を出すたびに熱い息が唇にかかるほどに近い。
長い指を持った手が、の頬に触れた。ごくり、と自分の喉が鳴るのがまるで他人事のように感じる。


「…おれの唇が荒れてて、お前になんの影響がある?」
「そ、それは…」


船長の太股についたの腕を、冷たく大きな手が捉えて這い上がってくる。
ぞわ、と鳥肌が立った。
頬にあった冷たい右手を首の後ろに回しながら、船長の顔がゆっくりと傾く。
距離がさらに縮まり、は頭が爆発しそうになった。


「お前、一体おれに何を期待してんだ…?」


低い声と一緒に聞こえたのは馬鹿にするような嘲笑の音。
その瞬間、はカッと頭に血が上るのを感じた。
硬直していた身体をバネのように跳ねさせ、船長の身体を弾くように遠ざける。そのままソファから飛びのいて、床に落ちてあったクッションを手に取った。


「船長の馬鹿!変態!海に落ちろ!」


罵声と共にクッションを船長に投げつけ、そのまま顔も見ずに踵を返す。
顔はまだ火のように熱い。
もう、船長なんて唇荒れすぎてそこから腐り落ちればいいんだなんて思いながら、足音荒く船長室を飛び出した。

後ろから低く不快な笑い声がこびりつくようにの背を追ってきているようだった。









(100710)