「さっきの生物のノート貸して!」

拝むように手を合わせた女の、勢い良く下げられた黒い頭を見ながら溜息をつく。
何度目だと嘆息しながら薄っぺらいノートをその頭に叩き付けた。ばし、と気持ちのいい音がする。

「ありがとう!トラファルガーのノートは要点しか書いてなくてわかりにくいけど無いよりはまし!」
「おい。もう貸さねェぞ」
「じゃ、借りてくから!」

ノートを取り返そうと伸ばした手は宙を掴んだ。黒いスカートを揺らしてすばしこい動物のようには身を翻す。
「ボニー、借りてきた!」「でかした!」菓子パンを口に詰め込み足を大きく開いた桃色の髪の女の元に戻ったが、おれのノートをまるで戦利品のように掲げる。
ノートには必要最低限のことしか書かれていない。おそらくあいつらには理解できないだろうという予想のとおり、二人は首を傾げて眉間に皺を作っていた。
机に肘をつきながら、その様子を横目で観察する。
歳に似合わずいい身体をしているジュエリー・ボニーと並ぶと、はいっそ哀れなほど貧貧相だった。細い首と腕が、黒いセーラー服から覗く。折れそうな指がノートを辿り、女らしく手入れのされた唇がおれのノートに文句をつけていた。

「おい、写したらそれおれにも回せよ」

おれの視界からとジュエリー屋が消えた。二人の席の前に立ちおれの視界を遮ったのはユースタス・キッド。赤い髪が不吉なそいつが現れた途端、の様子が変わった。
だらだらと伸ばしていた足を揃えて、取り繕ったようなイイコを演じるが可笑しいのと同時に腹立たしく、おれはそこから目を逸らす。
の白い頬は今頃薄らと染まり、はにかむような口元と、時折ぎこちなく外される視線がユースタス屋の前に晒されているのだろう。


ほんの半年前、のその視線はおれにだけ向けられていた。

今でもまるで数日前のことのように思い出される、あれは丁度秋の夕暮れだった。記憶は掠れるばかりか日ごとに鮮明になる。
夕焼けのせいだけではない赤みを帯びた頬と、途切れ途切れの振り絞るようなの言葉に首を振ったあの日。おれは幼馴染であったこいつと、それ以上の関係になることを拒んだ。
おれはそのままと幼馴染であることを望んで、もそれでいいと言った。
それで全てが解決し、これまでと同じ日々が戻ってくると思ったのだ。実際に戻ってきた。はあれを無かったことのように振る舞い、おれもそうした。
数ヶ月前、がジュエリー屋に「キッドのこと好きになったかもしれない」と言っていたのを聞くまでは。

それを聞いたとき、一瞬おれのなかで時間が止まった。
がユースタス屋に惚れるなんて思ってもみなかった、寝耳に水とはまさにこのことだ。
同時に頭に浮かんだ。
「お前はおれに惚れてるんじゃなかったのか」
心にぽつんと浮かび上がった自分の女々しい考えに吐き気すら催した。おれは、がおれに惚れているのは当たり前だ、とどこかで確信めいた妄想をしていたらしかった。
はおれに惚れている。いままでもこれからも。
だが、おれはをふった。あいつが今後、誰を好きになろうとおれの知ったことではない。

だがあたりまえの理屈におれの心が納得することはなかった。

の目がユースタス屋に向く。
の耳がユースタス屋に向く。
の頬がユースタス屋のために染まる。
もしもがユースタス屋とうまくいけば、はあいつのものになる。

そう考えると、腸が煮えくり返る。
それが世間一般に嫉妬と呼ばれる類の感情であることを認めるのも腹立たしい。
おれから手放した筈の女だというのに、が他の奴のものになるのは心底嫌だった。
とんだ独占欲だと自分を嘲笑ったところで、この沈殿した苛立ちが解消されるはずもない。

「ねえトラファルガー、家かえろ」

の口から、ローという名を聞かなくなったのはいつごろからなのか。
腹に溜まった澱のような感情を悟られないよう仮面を被る。
前を歩くは、にこにこと楽しそうに学校の話をした。
ジュエリー屋との会話。麦わら屋が掃除中に散々遊んで教師にこっぴどく怒られたこと。今日の弁当にの嫌いなおかずが入っていたこと。そして、

「キッドがね、もうすぐ始まる映画を見に行きたいんだって」

ユースタス屋の名前が出た瞬間ぴくりと動いた眉を悟られただろうか。
は真っ直ぐ前を向いている。頬が薄く染まっている。

「そんで、一緒に見に行かないかって」

耳は言葉を拾わない。目は規則正しく交互に前へ出されるの足に向けられていた。
耳にかけた髪が数本肩に滑りおちた。
鞄を持つ指先が桜色にひかっていて、舐めたら甘い味がしそうだと思った。


「トラファルガー?」


の口から零れる名前。ユースタスがキッドになり、おれはトラファルガーになった。
のなかのおれが少しずつ消えて、いずれはあいつに独占されることになるのだろう。

夕日が沈む。いつかの日がまた脳裏に浮かんだ。


『ロー、あのね…』


あの時、あの言葉に頷いていればと何度後悔したかわからない。
時間は無情にも流れていく
の中からおれへの感情を奪ったように、おれからもこの感情を奪ってくれ。
燃える夕日の赤がを包む。
それがまるで、あの日を手放したことへのあてつけのようにすら思えて、おれは眩しい赤に眉を顰めた。





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