もう触りたくないし触らないで欲しい。

彼にそう言い放ってから、数日。
今思えば、きっかけは些細なことだった。恋人が他の女の腰を抱いて耳を食んでいたことが些細なことであると言うのならば、だが。しかし「常識的に考えて怒ってもいい場面」に遭遇したとして、その常識のままにいちいちがなり立てていては正直身が持たない。
一般的な常識とは遥か遠い場所に居るのだ、あのトラファルガー・ローという男は。
は実際のところ、それなりに我慢強い女だった。彼が陸に着く度に女を買うことだって黙認してきたし、船長室の扉を開けたらびっくりな光景が広がっていたときも、耐えたのだ。
それもこれも、ローの「お前は特別」という言葉を信じてのことだった。

けれど、今回、はようやく真実に気が付いた。
つまるところ、あの男、トラファルガー・ローに特別な人間なんて居やしない。
が他の女と比べて特別であるというのならばそれは、クルーとして、ともにグランドラインを航海する仲間としての特別だった。他の女は軽々しく捨てるけれども、は捨てない。それは仲間だからだ。それともしかしたら、海の上ではしか女が居なかったという理由もあるのかもしれない。

度重なる裏切り…彼からすればそんなつもりは無いのかもしれないが…によりたまった鬱憤が、先日ついに爆発した。
よくある、まるで教本に描かれるお手本のような「嫉妬に狂った女」を船長室という大舞台で演じてみせたは、それからは彼の名前を呼ぶことを止めた。接触を止めた。昔どおり、ひとりのクルーに戻った。船を降りる気はさらさらなかった。船長としては尊敬しているのだ。男としてはうんざりしているけれど。




そんな彼が船長としての用向き以外での部屋を訪れたのは、見張り役以外は飲んだくれ共まで悉く眠りについてしまった夜だった。
いったいどういう手品か、鍵をかけたはずの扉を開けて姿を現した船長に、はベッドの中で毛布に埋まりながらため息をついた。


「船長、わたし寝るんです。用なら明日にしてくれませんか。さようなら!」
「船長として来たんじゃねぇよ。わかってんだろ」
「なおさらさようなら!」
「いつまで拗ねてやがる」
「おやすみなさい船長」


これ以上話すことなんてない、と態度で示して、は頭の上まで毛布を被った。
踵を引き摺るような靴音が近付いて来る。
絶対話なんてしないぞ、という意志をこめてぎゅうと毛布を握り締めた。のだが。

ぐ、と上から毛布を掴まれる感触のあと、温かいそれは抵抗もむなしく一気に引き剥がされた。冷たい風が入り込んできて、肌がぶわっと粟立つ。
なにするの、という言葉よりも先に、ローがの上に跨ってきた。
咄嗟にその身体を押し返そうと手を出しかけるが、


「おれに触るのか?」


という声に手が止まった。ローは無表情にこちらを見下ろしている。
それから、ふ、と力を抜いてにやりと笑った。「おれに触るってんなら、おれもお前に触れるぞ」
もう触れてるじゃない跨ってるんだから、と噛み付くように言うと肩をすくめられる。
触れてねえよ、と言われて確認すると、確かに跨るようにそこに膝をついているだけで腰は浮かせていて、には触れていなかった。

ぎ、とスプリングを軋ませて、浅黒い両腕がを囲むように捕える。
見下ろす彼に影がおちて、酷く妖艶だ。


「お前が触れたらおれも触れる。お前が触れないなら、おれも何もしねェよ」


こんな状況で何もしないなどとよく言えたものだ。
絶対に触れたりなんかしない、もうローとは終わったのだ。壮絶な色気を醸し出す彼につい手が出てしまいそうになりながらも、にだって意地がある。
「目ェ、逸らすなよ…」
低い声と一緒に端整な顔が近付く。絶対目だって逸らさない。逸らしたら負けを認めてしまうことになるような気がしたからだ。


ローは吐息がくすぐったく感じるほどに近付いた。
このままキスされるのか、という不安と期待で胸が高鳴ったが、近付いた唇はすんでのところで止まってしまう。


「期待したか?」


その言葉が吐息とともに吐き出され、の唇をくすぐる。思わず下唇を噛んだ。腹が立つ男だ。喉の奥で笑った彼は、ちらちらと舌を覗かせながら、それでもに触れてこようとはしなかった。
顎から首、鎖骨、胸、と吐息だけでの身体を嬲る。
節くれた手が、触れそうな距離を保ちながら、頬や身体のラインをなぞる。


「なぁ、言ったろ?おれにとってお前は特別なんだよ…」
「うそばっか。もういいよ、そんなこと言ってやれればいいだけでしょ」
「じゃあどうすればいい?好きだの愛してるだのとそんな言葉が欲しいんなら幾らでもくれてやるよ。お前はおれにどうして欲しいんだ」
「もうやめてほしい」
「無理な相談だな」


もうやめて欲しい。そうでなれば、以外の女に色目を使わないで欲しい。抱かないでほしい。そんな言葉が出掛かる。けれどそれを言うことはのプライドが許さなかった。
がそれを言えば、おそらくローは「分かった」と承諾するだろう。その口でまた、どこかの女を口説くのだ。そういう男だ。
吐息が、のむき出しの肩を移動する。ローはこちらから目を離さない。
とうとうわたしは、視線に耐えかねて目を逸らした。

吐息が胸まで移動して、ちゅ、というリップ音がした。驚いて目を開けると、にやりと笑ったローが見える。どこかに口付けたわけではなく、口だけで音を出したらしい。かあ、と顔に朱が昇った。


、悪いがおれは恋なんてものをしたことがない」
「…そうでしょうとも!」
「だから好きだのなんだのってのがよく分かんねえんだよ」
「だと思った」
「だがお前は特別だ」


ローの顔がまた近付いてくる。顎を噛むようなジェスチャーをしたあと、また唇が触れ合いそうな距離に現れた。


「おれはお前を失えない」
「…別に船降りたりしない」
「お前とやんのが一番興奮する」
「むかつく」
「思い出すだけで勃っちまいそうだ…
「出てってよ、色魔」


低い声と一緒に、熱い、まるで情事のときのように熱い吐息がを撫でる。
触れられていないのに、全身を弄られているような錯覚さえあった。
「お前も息荒くなってんじゃねえか」
知らない内に荒くなっていた息を指摘されて、ぎゅうと拳を握り締めた。


とセックスしてぇ」
「やだ!どっか他当たって」
「おれはお前の望むことなんてしてやれねえ。言葉だって嘘になる。だがお前は特別だ、これだけは誓って言える」
「クルーですから特別でしょうとも」
「そうじゃねぇよ…」


わかんねぇ奴だな、と呟いたローは表情こそにやり笑いを崩さないが、大分余裕が失われてきているようだった。目がぎらぎらとして、息がひどく熱い。けれど約束を守る気はあるらしく、ぎりぎりを彷徨う唇も手もには触れてこようとはしない。
そういうのほうも、かなり限界に近かった。一度好きになった男をすぐに忘れられるほど器用な女だったら苦労しない。


「お前が大事だ。クルーとして手元にあるだけじゃ足りねえんだよ」


眉根を寄せた顔が酷く艶めいている。
だからそれを恋って言うんじゃないの、と言ってやりたくなった。
けれどローは認めようとはしないだろう、決して。本当に知らないのかそれとも認めたくないのかは定かではないが。


「他の女だったらこんなみっともなく追い縋ったりしねえ」


額に声が落ちて、ローの首元が見えた。また、ちゅ、というわざとらしい音が響く。口付けたわけではない。ふり、だ。


「なぁ、やろうぜ」


きっとこれが最後だろうという響きがあった。ここで首を横に振れば、の静止なんてもう無視してローは襲ってくるに違いない。
なんてことはない、まるで日常動作の一環のように他の女を抱くくせに、が追えば逃げるくせに、いざ離れてみれば特別だ大事だと言って追ってくる。
恋や愛など知らないと言いながら、余裕ぶった口元とは裏腹に切羽詰った目でそれを伝えてくるなんて。



「馬鹿なおとこって、ローのことを言うんだよ」



髭の生えた顎を撫でると、ようやく許しを得た恋を知らない獣が喉の奥で笑いながらその獲物に手をかけた。






(そんなわたしも馬鹿なおんな)


(091004)