ぎいぎいと、闇の啼く声がする。
耳を苛むその音に、は拳を強く強く握り締めた。
ずるずると引き摺るような音。すすり泣く声。金属が床を掻く音。
窓を閉め、シーツの中に潜り込んでも、その音はの耳を捕らえて離さない。
夜は彼らの世界だ。
この落陽の城に住むただひとりの人間であるを狙い、黒い闇が部屋の周りを這い回る。
だが彼らはここには入って来ることはできない。
何かに遮られているかのように、うろうろと部屋の回りを巡るだけだ。
そう理解していても、襲い来る恐怖に慣れることはできなかった。
この部屋に入ることのできる悪魔はただひとり。
その悪魔こそが、を庇護する唯一の存在であり、彼女の世界の全てだった。
日が昇って、落ちて、夜が来て、また昇って。
いったい幾日が過ぎたのだろう。最後にあの赤い眼を見たのはいつだったのだろう。
暫く、彼の姿を見ていない。
『お、いで』
重厚な扉の外から、囁くような声がする。
とても優しい、甘えるような宥めるような声だ。
彼、唯一の悪魔バージルが不在のときは、小さな異形達はそれはそれは積極的にに語りかけてきた。
この部屋を出て顔を見せておくれ、と。
妖精のように可愛らしい声で、部屋の外から招く声。一度、その声に応じたことがあった。
重く分厚い部屋の扉を開け、部屋から一歩足を出した瞬間、足を取られて部屋から引き摺り出された。
その後のことはよく覚えていない。
ただ黒い影に圧し掛かられ、肌を鋭利な爪で掻かれ牙に噛み付かれ、逃れようと我武者羅に腕を振り回した。
鈍器のようなもので頭を殴られ、衝撃に気を失った。
そして、次に目が覚めた時には部屋の中の寝台の上だった。
目を開けると、銀色の髪に赤い眼をした彼が静かにを見下ろしていた。
「ネロ、アンジェロ」
小さくその偽りの名前を呼ぶと、彼の赤い眼が蜃気楼のように揺れた。
体中が軋み痛み、首を回すことも出来ず、もう一度彼を呼ぼうとしたが、舌は渇き声は出なかった。
それから、は彼が不在の時には決して部屋の扉を開けようとは思わなくなった。
囁き招く声は、紛れも無く恐ろしい夜を跋扈する魔の者の声だ。
応じれば命は無い。それを身をもって知った。
『あいつ、こないよ』
『もうかえ、ってこない』
『ひとりぼっち、こっちにおいで』
『さみし、くないよ』
異形の魔は甘く優しい声で、残酷な言葉を吐く。
彼らの言葉は全て、ひとを惑わしかどかわし、陥れようとするものだ。
人の心の不安を言い当て、恐怖を煽り、視界を狭める。
は冷たい寝台の上で、手を強く握り締めた。
爪が掌に食い込み、じんわりとした痛みが広がる。
唇を噛み締め、目を瞑る。
じわ、と舌の上に鉄の味が広がった。どうやら噛み締めすぎて切ってしまったらしい。
その匂いを嗅ぎ付けてか、ざわりと魔が騒いだ。
『いいにおい』
『おいでお、いで、こっちにおいで』
だんだんと、優しく宥めるような声色だったその声が本来の魔の性質を取り戻してゆく。
鼓膜を震わす、歪に重なる不協和音。
低いようで高い、人ならざる者も声だ。
『さァおいでおいでこっちだ、あの男はかえってこないお前はひとりだこっちへおいで』
帰ってこない。ひとり。
悪魔の声が頭の中を反芻する。
既には悪魔の術中にあった。
もしも、このまま彼が、バージルが帰ってこなかったら。
彼の悪魔はにとって唯一絶対の存在であり、この世で最も慈しむべき対象であった。
例え彼の口から言葉の殆どが失われ、かつてあったあたたかな眼差しが消え失せたとしても。
あの青い悪魔無しでは自分の生など無に等しい。
彼女はそう思っていた。
帰ってこないよ、あいつはお前を見捨てたよ。
悪魔が囁く。
は強く耳を塞いだが、その声はまるでそんなことはお構い無しに頭の中に響いてきた。
やめて、やめて。
小さく呟くと、嘯く悪魔はさらに気をよくしたのか、もはや優しく言い含める声色を使わず、異形の者本来の禍々しさでに語りかけてきた。
やめて、やめて、そんなこと言わないで…ーー!
「バージル…!」
搾り出すように喉から飛び出した音に呼応するように、部屋の外から金切り声が響いた。
長く長く続いた吼えるようなその声は、だんだんと小さくなり、そして絶えた。
それきり、囁く異形の声は聞こえなくなった。
そっと耳を塞いでいた手を取り払い、声の途絶えた扉へと顔を向ける。
がちん、と重厚な音がして、とあとひとりしか開けることのできない重い扉が、軋みながら開いた。
ずる、と部屋の中の空気が動く。
続いて、こつ、と部屋に足を踏み入れた者の姿を見て、の心が歓喜に打ち震えた。
彼が帰ってきたのだ。
姿を現したの悪魔の、その鎧は赤黒く濡れていた。
つい先程ついたとしか思えない、その滴る血の持ち主を思い描く。
おそらくは、に語りかけてきていたあの悪魔の血なのだろう。
バージル。
そう呼ぼうとして息が詰まった。
彼が目の前にいない時にはすんなりと喉から出る真実の名前は、やはり彼を目の前にすると封じられてしまうらしい。
仕方が無く、はまた偽りの名で彼女の唯一の悪魔を呼んだ。
「ネロ・アンジェロ」
赤い眼の悪魔は、まっすぐにこちらに向かってきた。
鋭く斬るような目線に射抜かれる。
目の前までやってきたバージルは、手を伸ばしての唇に触れた。
親指でなぞるように唇を拭う。
ぴり、と唇に痛みが走った。先程、噛み締め過ぎて切ってしまったためだ。
彼は、の血を拭った親指をじっと見つめている。
その赤い目が揺れていた。
眉が苦悶を形作り、どこか震える息がその口から吐き出される。
バージルは苦しんでいた。
そうとしか見えない表情だった。
(ああ、)
は嘆息する。
やはり、名を封じられ姿を変えられても、かの悪魔は彼のままだった。
鋭い刃で武装した優しい心。
を護ると誓ったその言葉のとおり、こんな姿になってまで、ただひたすらに自分を護ろうと剣を奮う。
は、石像のようにそこに立ったままの悪魔に腕を伸ばした。
彼の封じられた心に届くようにと、祈りにも似た気持ちだった。
「大丈夫だよ」
わたしは屈したりはしない。
嘯き惑わそうとする悪魔にも、あなたを封じた悪魔にも、襲い来る恐怖と不安にも、何にも。
願いはひとつ。ひとつだけだ。
彼の傍にあること。
彼と共にあること。
幾万の甘言にも恐怖を揺さぶる言葉にも、もう心動かされたりはしない。
(助けてみせる)
バージルを闇に貶めたのは、自分の存在があったからだ。
鎖を断ち切って逃げることも出来た。それをしなかったのは、の存在があったからだ。
弱く脆く頼りない人間の身が憎い。
いっそのこと、自らの命を断ち切ってしまいたい程に憎い。
だが彼が、バージルが、その弱く脆いこの身を案じ護ろうとしてくれるのであれば。
(わたしが、絶対に)
先程まで苦しそうに歪められていた顔は、また氷の冷たさを取り戻している。
その表情からは、なんの感情も読み取ることは出来ない。
だけど。だけど。
黒い鎧を纏い、闇に堕ちた彼の中に、まだ居るのだ。
いつか、穏やかな声での名を呼び、目を細めた愛しい悪魔が。
強く強く、その冷たい身体を抱きしめる。
冷えた鎧が、触れた肌から熱を奪っていった。
「好き…」
溢れるように零れ落ちたその言葉が夜に溶ける。
ぴくり、とその黒鉄の鎧を纏った腕が動き、だがしかしいつかのようにその腕がの背に優しく回されることは無かった。
耳に残るは君の歌