夜が来る。
闇を蠢くものたちにとっては、太陽の落ちるその時こそが目覚めの時だ。
瘴気がいっそう濃くなり目にも鮮やかな赤が広がる。
沈まんとする太陽が赤々と照らし出すその城は、かつて荘厳で優美なものだったのであろう。
しかし今は、禍々しい生き物の跋扈する地獄の釜の底だった。
終焉の赤に照らされる横顔を、はただ見つめていた。
かつて、凍りつく冬の青を呈していた彼の目はその面影をどこにも残していない。
愛用していた青いコートも、鋭く冷たく光っていた細身の刀すらも持ってはいなかった。
コートの代わりに無骨な黒い鎧を、刀の変わりに鈍く光る大剣を。
「日が沈むね」
答えは無い。それを分かっていたから、特に気にもしなかった。
いつかのあの日、彼の目が真っ赤に染まってしまってから、彼は全くの別人のようになってしまった。
周りの悪魔達と同じく大きな存在に支配される駒のひとつのようだと思う。
実際にそうなのだろう。とは言っても悪魔達はそんなことを教えてくれるわけではないし、そもそも彼らはを見る度襲い掛かってくるので話などできよう筈もないから、全ては憶測にしか過ぎない。
降伏を良しとしなかった彼が、ついに膝を折った。
それだけは理解できた。
あの日から、彼の真の名は消えて失せた。まるで最初からそんな名前では無かったかのように。
悪魔で言葉を話すことのできる者達は、彼を「ネロ・アンジェロ」と呼ぶ。
が知っていたかつての名で呼ぶことは禁じられた。
その名を呼ぼうとするたび、喉が詰まって息ができなくなる。
だからも、他の者達と同様にネロ・アンジェロと呼ぶことしか出来なかった。
彼はただ、大きな窓から外を見ている。
その目線に揺らぎなど微塵もなく、ひたと見据える赤はなめらかな血の色をしていた。
色が変わり名が変わっても、にとってやはり彼は彼だった。
彼の手枷が外れ、自分の銀色の鎖が外れた時、神々しく光る白い声はに言った。
ひとの世界に帰れと。
それが、悪魔の世界に於いて有り得べからざる慈悲であり、彼が膝を折る代わりに求めた契約であったことには気付かず、静かに首を振った。
ただひとつ与えられた退路は塞がり、一切の庇護はそこで失われた。
闇の中、牢獄において沢山の悪魔に囲まれていた。その悪魔達はと彼とを遠くから眺めるばかりで決して襲っては来なかったから、もそういうものだとだというように思っていた。
だが、それは単により大きな力を持つ何者かが庇護していたからこそなのだということを知った。
人の道へと帰ることを断ったときから、今まで遠巻きに見ていた悪魔達からの襲撃を受けるようになった。
その度に彼が追い払ってくれていたから大事には至らなかったけれど、それでも無傷では済まない。
かつての城主が使っていた部屋なのだろうか、豪奢な寝台と大きな壁鏡のついたこの部屋だけが、唯一悪魔に襲われない安息の場所だった。
「ねえ、……ネロ・アンジェロ」
返答は無い。
彼は、に関する一切のことを忘れてしまっているようだった。
もうその目がこちらを見て緩むことはない。
だが、どうしてだかの身が危険に曝されるとその剣を振るって助けてくれるのだ。
酷く苦しげな表情で。
彼はを拒絶しない。だが受け入れることもしなかった。
ただ守るだけだ。その口から、名を呼ぶ声を聞くこともなかった。
太陽が沈もうとしている。
それは消えようとする火が最期に見せる一瞬の煌きにも似ていると思った。
心と口と行いと生命をもて
(今、そこには何もない)