それは、まるで図ったかのように心の中へと忍び込んできた。
日を追うごとに、身体が疲弊していく。だがそれよりも問題なのは、のことだった。
元々弱く脆い人の身、魔界の瘴気は存在するだけでの喉を焼き気力を奪った。
だがあの女はそんなことには頓着しない。
どこまでも真っ直ぐに、只ひたすらにこの身のことだけを案じているのだ。
どんな苦痛にも耐えられる。心の臓を突き刺される痛みも、肉を抉られる感覚も。
だがしかし、が害されることだけは耐えられなかった。
(死んでしまう)
死なせてしまう。その思いだけが頭の中を巡る。
常の彼ならば、かつて些末時だと笑ったことに心を支配されているこの状況を煩わしく思っただろう。
だがそのことにも気付かぬほどに、彼もまた病んでいた。
胸を灼く焦燥が苦しい。この鎖が外されさえすればどうとでも出来るのに、それをすることは不可能だ。
否、可能ではあるが既に選択肢ではありえない。
どうする、どうすればいい。
頭の中に様々な考えが巡ってそして消えていく。
そこに、それはするりと忍び込むように侵入してきたのだ。
『どうすれば良いか教えてやろう』
すぐに、それが悪魔の声だと分かった。
堅牢に守られているはずの中核、心にまで侵入を許してしまったことに苛立ち、舌を打つ。
(出て行け)
目を閉じて強く念じるが、声の主はその行為を嘲笑うかのようにその場に居続けた。
『膝を折れ。唯一の王に跪くのだ』
冗談ではないと思った。たとえ首を落とされたとて跪くつもりなどない。
魔も力も、かつて彼を強烈に惹きつけたものだった。それは今でも変わってはいない。
しかし、他の何よりも優先すべきものができた。
欲するものの全てはそれを守るための手段であって目的ではない。
『だが、このままではまた永遠に失うぞ』
ひやり、と心の淵を撫でるような冷気が這う。
それは唯一彼の恐れていることだった。
失うことの痛みは嫌というほど知っている。あれはもう二度と関わり合いになりたくはない類のものだ。
だからこそ、過去の彼は失うことのない代わりに何も得ないことを選んだ。
それを変えたのはひとりの脆弱な人間の女だった。
彼女によってもたらされた小さな光は、やがて彼にとって失えないものとなってしまった。
必要無いと拒絶してきたのは手放し難くなってしまうことが目に見えていたからだ。
終に彼の手の中に納まってしまったこの温かい光は、今、失うにはあまりに惜しい。
『助けてやろう。お前を差し出すのならば』
心に薄い膜のような迷いがかかる。
このまま放置することは実は容易いことだ。かの悪魔は自分が膝を折らなければ死ぬまで責苦を加え続けるだろう。
そうして、いつかこの身は朽ち果てたその時、枷として使えなくなったあの女も同じく葬り去られるのだ。
いや、それまで生きていられたならばまだ良い。彼の身が腐り堕ちる前に、の命が消えてしまうだろう。
『二人で死ぬか、女を生かすか』
それ以外に選択肢は無い。
声はことのほか優しいものだった。
二人で死ぬか
女を生かすか
彼女に問えば、その返答はただひとつだ。
そして彼にとっても、選択肢など無いにも等しかった。
我いずこかに逃れ行かん
(選ぶべき答えはひとつ)