今や、は枷となりつつあった。いや、その表現は正しくない。既に彼女は枷だった。
どんな呪いよりも苦痛よりも強固で脆い枷だった。
如何な悪魔の力を持ってしても抑えられない半魔を縛る、肉の枷。
どんなに足掻いて暴れて逆らっても、半魔はこの人間の檻だけは破ることはできなかった。

周りに潜む塵屑のような矮小な悪魔が嗤う。
無力な人間一人殺せずにここに留まる自分を見て。
意識は混濁し、閉じた目は何をも映さない。瞼を上げることすら難儀だ。
あるのはただ疲弊だけだった。


「…バージル」


彼女の声は掠れきって、耳を澄まさねば聞こえないほどに小さい。
嗚咽を漏らすことにさえ飽いてしまった静寂が其処にはあった。
腕に食い込む腐った鉄枷のもたらす痛みは、既に麻痺してしまっている。
何の呪力が働いているのか、流れ出す血は止まらない。
だがそれでも息絶えぬ理由は、ひとえに彼の中に流れる悪魔の血にあった。


「バージル」


さらに己を呼ぶ声に、意識が俄かに浮上する。
うっすらと開いた瞼の隙間から刺すような光が入って、反射的にまた閉じる。
目を開けることがこんなにも苦痛を伴うものだとは知らなかった。
もう一度ゆっくりと瞼を上げると、なんのことはない、先ほど眩しいと思ったのが嘘のように辺りは闇に包まれていた。

吊られた腕を動かすと、肩に鈍い痛みが走る。
首を持ち上げようとして、引き攣った喘ぎが喉から漏れた。


「ごめんなさい」


柔らかく温かな掌が頬に触れた。
それがどうしようもなく貴重で愛しいものに感じられて、無意識にその掌へ頭を預ける。
その温かさは命の証だ。
魔と闇と混沌の溢れかえるこの堕ちた世界で、唯一絶対に正しいもの。

ごめんなさい、とまた謝罪の言葉が聞こえて、聞こえるか聞こえないかくらいの音で返事をする。
どうしてお前が謝る、と。


「この鎖を切って、ここから逃げて」


がしゃ、と硬質で不快な音を立てて腕を繋ぐ枷ごと鎖が引かれる。
ただの朽ちた鉄の枷だ。壊して逃げようと思えばいくらでも逃げられる。
この程度で自分を留め置くことなど出来る筈が無いのだ。…本来ならば。


「逃げてよ、バージル」


白い掌に頬を預けたまま、バージルはその手の主…へと目を向けた。
懇願するの顔は、自分などよりも遥かに大きな苦痛に耐えているような表情をしている。
その首にかかる、細い銀の鎖。

一見、ただ美しいばかりに光るその銀の鎖は、自分の手枷と直結している。
はじめにこの枷を付けた悪魔は言った。
『枷を破れば、これがこの女の首を断ち切る』と。

鉄枷を外して檻から逃げることは簡単だ。
しかしそれはの死を意味する。

二重の檻だった。
鉄と、人とで作った檻。

鉄の檻からは抜け出せても、の命で作った檻を破ることなどできはしない。
その時から彼は虜囚となった。


「逃げてよ…」


彼を捕らえた悪魔は狡猾だった。この半魔が人間の女に情を抱いていることを知っている。
だからこそを傷つけることはしなかった。
バージルは静かに首を振る。逃げられない。

責苦は日に日に強くなり、彼の体力はおろか気力さえもを殺いでいく。
矜持を折り心を砕き完膚なきまでに叩きのめして、折伏しようとしているのだ。
時に荒くなじる様に、時に囁き誘惑するように、闇に魔に頭を垂れろと。
母を殺した魔界の王に跪けと。

磨耗した心に、敗北は目前だった。


「……っ」


がしゃがしゃと、壁と彼を繋ぐ鎖を揺らして、は懸命に枷を外そうとする。
爪で引っかくような耳障りな音がした。
外すことはできまい。人間の、しかも女にそのような力がある筈もなかった。


「よ、せ」
「やだ!」
「手が、傷つくぞ」


そんなことどうだっていいよ、と猶もは足掻くことを止めない。
荒く尖った鉄の表面が、柔らかい皮膚を傷つける。
足掻いて足掻いて、枷を外せないことが分かるとは次に自分の首にかかる細い鎖を外しにかかった。
きつく巻かれているわけではないのに、どういう理由か、その鎖を首から抜き取ることも引き千切ることもできない。
我武者羅に引っ張る白い指に、鎖が食い込んで赤い跡を残した。
みちみちと食い込む鎖が、掌の皮膚を食い破る。ぽたりと赤い雫が流れた。

途端、その血の匂いに反応したのか俄かに闇がざわめいた。


「やめろ」
「いや!」
「やめろ」
「やめない!」

「…、頼、む」


搾り出すような声に、ようやっとが鎖から手を離す。
その顔には、絶望と苦悩と怒りとがありありと表れていた。


「ごめんなさい、わたしが…わたしが…」


その先の言葉は続かない。今更言っても詮無いことだ。
わかっていた。この存在がいつか自分の急所になるだろうと。
だがそれを選んだのは自分だった。
只一つ後悔することがあるとすれば、己の無力。守りきれなかった己の無力だけだ。
この上、さらにこの女を傷つけることなどあってはならない。
ましてや自分の手で命を奪うなど。


の謝る声は止み、やがてどうしようもない沈黙が取って代わった
瞼が重い。
目を開けていられない。
身体の奥底に沈殿した疲弊が、酷く重い眠気を連れてくる。
薄れ行く意識の中で、唇を噛み締める彼女の存在が認識しうる世界の全てだった。



砂の上の墓碑銘

(失えないものができるなんて考えもしなかった)