気を失った彼の身体が、人形のように亀裂の間に落ちていくのが見えた。
咄嗟に手を伸ばしたけれどもほんの数cmの差で間に合わず、身体中の血が冷え切っていくような気がした。
気が付いたときには既に自らもその亀裂の中に身を投げ出していた。
落下していくバージルの身体を捉えて、腕に抱く。
このまま落下して終着点に届いたことには、たぶん自分は生きてはいないだろうと思った。
ただ、彼の怪我が少しでも軽ければいいと、それだけを考えた。






落下していく身体と意識のなかで、ふと暖かい何かに包まれたような気がした。
鼻腔に流れ込む知った匂いに、突如として意識が冴える。
それは反射といっても良かった。
バージルは自分を包む暖かいものが何かを確かめるよりも先に、本能に従って悪魔の力を解放した。
がくん、と身体の落下が遅くなる。
だが地面が近すぎて停止は間に合わなかった。
来るべき衝撃に備えて、バージルはまたも無意識のうちに、しがみ付く暖かいものを庇うように抱きしめた。


「くっ…」


どすん、と重い音を立てて背が地面にぶつかった。
身体が弱まっている所為か、衝撃が肺から空気を押し出し息が詰まる。
同時に魔人化が解け、重い鉛の塊が全身を押し潰してくるような感覚に支配された。
予想以上にダメージが大きいことに苛立つ。


、」


腕に抱きしめ庇った女の名前を呼んだが、彼女はバージルの身体の上に伏したままぴくりとも動かない。
二度目の呼びかけにも返答はなく、心臓がゆっくり裂かれていくような気がした。
痛む上半身を起こし、を見る。
その口元に手を当てると、かすかだが空気が震えているのがわかる。

生きている。

どっと押し寄せるような安堵。





あの高さから落ちれば命はない。
またも彼女は、自分のために命を捨てようとしたのだ。

の感情はわかっている。この人間の女は、もう随分前から自分に好意を寄せていた。
気付かぬはずがない。
だが、それ以外にバージルに付き従う理由などないはずだ。
ただ一時の好意のために、命を投げ出す意味が解らない。


改めて彼女を見てみると、その身体には無数の傷が出来ていた。
その中には、明らかに今さっき付いたとしか思えないような傷もある。
落下の途中で瓦礫にでも当たったのかと考えたが、おそらくそれは間違いだ。

この傷は、魔人と化した自分の皮膚がつけたものだ。
硬質で悪魔の鎌をも通さないこの皮膚は、触れるだけで人間の弱い肌を傷つける。


「うう、」


が小さく呻いて、うっすらと目を開ける。
黒曜石の眼が、ふらふらと彷徨って、真っ直ぐにバージルを捉えた。


「バージル、無事?」


こんなときにまで。こんな時にまで案じるのか。
己の身は省みずに、悪魔である自分を案じるのか。
抱きしめる腕でさえ傷つけてしまうこの身を。


「怪我、は、」



知らぬうちに手がへと伸びる。だが、その柔らかい頬に触れる前に手を下ろした。
(傷つけるわけには、)


「お前はお前が生きることだけを考えろ」


下ろした右手に、ふと硬いものが当たった。
それは父が残した力の一部。
いつも傍に置いておくべき愛刀のことを一瞬でも忘れた自分に驚き、バージルは柔らかい頬の代わりに冷たい刀を手に取った。



「どうかしている」