荒い息を吐きながら、しかしバージルの身を支配しているのは身体的な痛みではなかった。
胸が裂けるようだ、と思う。
心を覆い尽くすような怒りと、同じだけ大きな歓喜がバージルの内を乱していた。
相反するふたつの感情に灼かれるようだった。

横に座り込み、ただ心配そうにこちらを見つめる女の眼差しが突き刺さるような気がする。
その手がバージルに触れようと伸ばされてきたのを見て、小さく舌打ちをした。
の手が自分に届く前に、強く襟元を掴み上げた。


「何故残らなかった…」


喉の奥から、搾り出すようにして声を出す。
自分でも驚くほどに低く、怒りの滲んだ声だと思ったが、は怯む事なくこちらを見つめ返してきた。


「血、止まったんだね。良かっ」
「ふざけるな」


誤魔化そうとするような言葉を荒々しく遮る。は少しだけ悲しそうな顔をして口を噤んだ。
それを見て、自分の中で何かが切れたような音がした。
腕が抜けるかもしれない、と思う程の力での腕を引き、その細い体を思い切り抱き込む。
何故、何故、と疑問が頭を回る。
堰を切ったように、言葉が溢れ出し、止めることは出来なかった。



「何故そうまでしてついて来る」
「分からないのか、俺は負けた」
「力を欲して敗北した!」
「俺は、お前を…」



「いつか、死なせてしまう」



最後の言葉は上手く声に出来なかった。喉が渇いて痛みすら感じる。
いつかのように、目の前でこの女の命が失われていくことを想像しただけで眩暈がするようだった。
無駄だと決め付けていた存在が、自分の中でこれ程までに大きくなってしまうとは夢にも思わなかったことだ。
この感情をうまく言葉に表すことはできない。
ただ、失うことが恐ろしかった。それが生きての別離であれ、死別であれ。


「好きだからだよ」


の静かな声が耳に入る。
それはずっと避け続けてきた言葉だった。


「拒絶するならば今ここで殺して。でも、そうしないのなら、あなたの傍に居ることを許して」
「あなたの傍以外、行くところなんて、」


だから置いていこうとしないで、と言った声は震えていた。
じわり、と涙の溜まった瞳がバージルを映す。それが流れ出さないようにと、耐えているようにも見えた。

この女は、自分と共に行くために全てを置いてきたのだということを思い出す。
暖かい家もあっただろう。優しい友人もいただろう。だが、全てを置いてきた。
そうして今、バージルと共に行けぬのなら命すらも手放していいと言った。

死なせるものかと思った。


「…茨の道だ」
「わかってる」
「命を失うかもしれない」
「覚悟の上よ」
「…そうか」


バージルは抱きしめる腕を離し、立ち上がった。腹が疼くように痛むが、今はそれよりも内を満たす感情の方が辛い。
涙を湛えたに、手を差し出す。
死なせはしない、二度と目の前で失うような失態は犯さない。
闇に堕ちて全てを捨てて、それでも自分を選ぶというのならば。


「ならば誓おう。俺の持ち得る全てを以ってお前を護ると。
 
 ……共に来い」


はひとつ頷いて、バージルの手をとった。
瞬間、バージルの内の怒りを全て塗りつぶして、狂気ともつかない歓喜ともつかない感情が支配する。
白い顎に手をかけて、柔らかな唇に自分の唇を押し付けた。
二、三度触れるだけの口付けを繰り返し、顎を押し下げるようにするとの唇がうっすらと開いた。
絡まる舌から痺れるような甘さが伝わる。

ようやく満たされなかった胸の内を暴れまわっていた渦のようなものが治まり、代わりにまた狂うような別の感情が目を覚ます。
この命を以って護る代わりに、の心も身体も魂さえも全て自分のものだと叫んでしまいたかった。
強烈に誰かを欲する灼けつくようなこの感情が、悪魔である自分から生まれるものなのか、それとも疎んだ人間である自分から生まれるものなのか分からぬままに、今はただひとりの女を護る腕があることだけを誰にともなく感謝した。


きみを欲す