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彼に初めて会ったのもこんな夜だった気がする。は月を見上げながら、もはや御伽噺の世界のように遠いものとなってしまった過去を思い返す。否、思い返そうとした。 この美しい洋館に足を踏み入れる前までの全ての記憶は曖昧で、ごくまれに断片化された映像がフラッシュバックするのみ。それらが繋がることはなく、分かっている事と言えば、自分の名前と、そして自分がこの洋館の主に愛されているのだという事実のみだった。 ただ、此処に来る前、はもっと温かくて幸せな場所に居たような気がしてならない。もっとも過去を根こそぎ失ったにそれが真実かどうかを確かめる術はなく、都合の良い幻想以外の何者でもないかもしれなかったが。 だからこんな静寂の支配する夜には注意しなければならない。 その優しい幻想はの足を絡め取ってその歩みを止めようと隙を伺っているのだ。 「」 部屋の外から馴染みの声が聞こえてきた。この洋館の主だ。 ノックの音がして、それに返答する前に扉が開かれた。これではノックの意味が無いのではないかといつも思うが、彼はそんなことには余り頓着しない。 彼の姿が目に映ると、まるで魔法か何かのように胸が高鳴る。世界が彼一色に染まって、他の一切のことが取るに足らない小さな事へと変わってしまうのだ。 先程まで頭にちらついていたあの温かい幻想は、もうすっかり消え去ってしまっている。 「お帰りなさい、バージル」 「ああ」 扉を後ろ手に閉めたバージルの首に腕を回して抱きしめる。バージルはよりも随分背が高くて、思い切り背伸びをしないと腕が回らない。 が辛くないようにとの配慮だろう、バージルが少しかがんで、そうして腰を優しく抱きしめられた。 「外には、」 「出てないよ。ここにずっと居た」 「そうか」 「寂しかった」 「…」 彼は帰ってくるといつも同じ質問をする。外に出なかったかどうか。この屋敷の中に居たかどうか。 一度だけ、言いつけを破って外に出てしまったことがあった。あの眩しい太陽の下に。 その後は酷かった。見たことも無い程怖い顔をしたバージルは、空が白み始めるまでの身体を離しはしなかった。もう二度とこの館を離れて空の下に出ることはしないと誓った。 どうしてそんなにも、と疑問に思ったこともあったが、今更そんなことはどうでも良い。 外にさえ出なければ、バージルの優しさは全てのものだった。 ああなんて幸せなのだろう。その広い胸に頭を凭れさせると、大きな掌がの髪を撫でた。 それがとても心地よくて目を閉じた。 その焔の名を知らぬが故に 外は満月。騒ぐ悪魔を屠りその血を浴びた愛刀を片手にバージルは館へと戻った。その館は悪魔の巣窟となって捨て置かれていたもので半ば廃墟のようなものだった。修復は出来てもその館にこびり付いた犠牲者の血はとれない。 丁度良い塒程度になるだろうと使っていた其処に、彼女が迷い込んで来たのだ。丁度こんな静寂の支配する満月の夜だった。 人間など邪魔なだけ、常であれば適当に追い出してしまうところであったが、その夜は勝手が違った。 満月は闇に潜む生き物をざわめかせる。彼もその例外ではなかった。悲痛な悲鳴さえも無視して塞いで押さえつけて、バージルはその侵入者の身体に後悔を刻みこんだ。さらにそれだけでは飽き足らず、ある一つの呪いをかけた。 それは父に関する文献を探していた過程で偶然見つけた、愚かな人間が手に入らない誰かを従属させる為に用いた陳腐な呪い。心を縛り過去を奪い、自分以外の一切を見えなくさせるものだった。 単なる気紛れ、その場限りの好奇心。 「」 に宛がった部屋の前に立ち、ノックをする。返答を待たずに扉を開けた。 彼女がこの部屋の中に居ることも、未だ眠っていないことも分かっていた。呪に縛られた哀れな娘は、毎晩こうして自分が現れるのを窓辺で待っているのだ。 「お帰りなさい、バージル」 「ああ」 扉を閉めると、まるで忠犬か何かのようにが走り寄ってくる。細い腕が自分の首に回されたのを感じ、同じようにその細腰を抱きしめた。 とくとくという鼓動が直に伝わってくる。生きている限り生み出される熱とその音に、いつか失った筈の痛みが戻ってくるような錯覚に陥る。遠い昔奪われたあの温もりが。 「外には、」 「出てないよ。ここにずっと居た」 「そうか」 「寂しかった」 「…」 此処に置いたのは単なる気紛れと一時の好奇心だ。そして解放しないのはざわめく悪魔の血と暴れる欲を満たすためだ。 その理由は変わらないし、他にを傍に置いておく利点など見つからない。邪魔になれば適当に処理してしまえば良いだけの話。 だが偽りの愛の為に、盲目的に信頼と信用を寄せるの姿、刹那の幸せに綻ぶ笑顔がバージルの斬り捨てようとする手を躊躇わせた。 委ねられた体温に心が震える。もう少し、と別れの時を先延ばしにし続けて一体幾夜が過ぎたのだろうか。 小さな頭が凭れかかって来る。例えばこのまま呪いを解いたら彼女は一体どうするのか。その唇が呪詛と怨みを吐き、刃を以って自分の命を狙うのだろうか。 別離は必ず訪れる。けれどその時を今迎える気は無い。 じりじりと内を灼くものの名を知らぬまま、バージルはその髪を静かに撫でた。 いずれ訪れる後悔は見えない その呪いに蝕まれたのは哀れな人間か、それとも、 |