頭がいたくなるような甘ったるい香りが部屋を支配している。
この匂いの元凶を持ち込んだ女は、いつになく上機嫌で鼻歌でも歌いだしそうな気配だ。
磨き上げられたテーブルの上に我が物顔で鎮座しているのは、様々な種類のドーナツ。
リング状のものから、おおよそドーナツと呼んでいいのかどうかわからないような形のものまで山のように積まれている。
それらがこの世で最も美しく価値あるものだと言わんばかりの表情で、女…は満足げな溜息をついた。


「なあに、バージル。食べたいの?」


視線を感じたのか、彼女は笑顔で振り向いた。正直、匂いだけでまいっているというのにとてもじゃないがそれを口に入れる気にはなれない。言葉も無く首を振ると、そう、と一言だけ発しての目はまた目の前のドーナツへと向かった。
相当な数だ。どう考えても、これらが全て彼女の中に納まるとは思えない。
そんなに食べられるのかと聞くと、案の定「無理」という答えが返ってきた。残った分は明日食べると言うの顔は幸せそうではあるが、今日明日で食べきれるものではないだろう。
ふと、同じように甘いものに目が無い弟のことを思い出した。


「どれから食べようかな…」


数えるようにしながら指をさして、どのドーナツから手をつけようか思案しているの顔はかなり真剣だ。
もっと他に真剣な表情をする場面があるだろうに、という思いは胸の内に留めておく。
開けられた窓から流れ込む風に乗って、甘ったるい匂いが鼻についた。


「ねえ、やっぱり食べたいんじゃないの?」
「誰がだ」
「さっきから、ドーナツばっか見てる。ほんとは欲しいんでしょ」


「はい、特別にこれあげるよ」と差し出されたのはスタンダードはリング状のドーナツ。チョコレートも蜂蜜も粉砂糖も何もかかっていない最もシンプルなドーナツだった。


「折角紅茶も淹れたんだし、一緒に食べよう」


ね、お願い、と言ってソファの隣を開けられれば断ることもできない。
どんな類のものであれ、バージルはの「お願い」に弱いのだった。
随分甘くなったものだと半分自嘲的に口の端が上がる。だが嫌ではない。
彼女の「お願い」は大抵、こういったどうでも良い小さなものばかりだ。逆に、本当に困ったときには決して人には頼らない。
その態度が好ましくもあり、同時にもどかしくもあった。
開けられたの隣に腰を下ろすと、柔らかなソファがギッと音を立てる。


「へへ」


小さな「お願い」に応えると、の顔は幸せそうに歪む。
その表情をもたらしているのが自分であるというこの充足感が心地よかった。


「あたしこれ食べる」


手に取ったのは、チョコレート色をしたドーナツの上にさらにチョコレートソースをかけ、その上粉砂糖を降った見るだけで頭が痛くなりそうなひとつだった。いただきます、と元気な声を上げてドーナツに噛り付く口の周りに、とけたチョコレートと粉砂糖がつく。だがそれにも頓着せずにドーナツを頬張るの顔は幸せ一色だ。
まるで子供のようだ、と思いながらも何故だかそれすら愛しくて、自然うっすらと口が笑みの形をとった。


「なに笑ってるの」
「酷い顔をしているからだ。お前は子供か」


言いながら親指での口の端についたチョコレートを拭ってやる。
頬から指に移るチョコレートソース。
指が離れると、が突然その指に噛み付いてきた。


「!」


舌が指の腹を舐め上げる感触に背筋が泡立った。
ちら、と上目遣いに見上げてくる黒い目。その表情は、まるで悪戯が成功した悪餓鬼のようだった。
舐めて、吸い付いて、最期に音を立てて唇が離れていく。
親指についていてチョコレートソースはもう跡形も無かった。


「……おい」
「次はこっちにしよう」


バージルを無視して、の目線は次のドーナツへと移る。
まるくてふっくりとしたそれを手にとって大きく頬張るの顔からは何の他意も読み取ることはできない。


「これイチゴのソースが入ってるよ」


唇を舐めながらは頼んでもいないのにその齧りかけのドーナツの断面を見せる。
きつね色をした生地の中に、つやつや光る真っ赤なソースが入っていた。
とろりとしたソースは今にも零れ落ちそうに垂れてきている。


「こぼすなよ」
「そんなことしな―……いっ!?」


案の定、真っ赤なソースを服の上に垂らしたが奇声を上げる。
全くどうして予想を裏切らない女だと思う。
慌てるをあざ笑うように、その赤いソースはまたの腕へぼたりと垂れた。

ずるり

ゆっくりと、白い腕を滑るように流れる赤。それはまるで彼女の、そして自分の中を流れる血にも似ていると思った。
白の中に、その赤は酷く際立つ。
自然の色ではなく、何かで着色したであろう毒々しいまでの赤。

無意識に腕を伸ばす。バージルの手には細すぎる手首を些か乱暴に掴み、引き寄せた。
やめてまた零れる、ああ染みになっちゃう、と喚く声は黙殺する。
引き寄せられるようにして、の腕を伝う赤に唇を寄せた。

つう、と舌が舐め上げるその感触に、の腕がぴくりと震えたのがわかる。
甘い匂いが濃くなる。
目の前の赤と、舌が痺れるような甘さ、そして頭が痛くなるような甘ったるい匂い。

赤を舐め取ると、続いて現れる白い肌に眩暈がした。
この甘さが一体どこから来るのかわからなくなる。舌を痺れさせ、脳を揺さぶるようなこの甘さは。
薄い皮膚の下に流れる赤も、同じように甘いのだろうか。
牙を突き立て啜ってやれば真実を知ることができるだろうが、それは叶わない。
ざわざわと騒ぐ胸の内に気付かぬ振りをして、その偽りの赤に口付ける。

全て舐め取っての顔を見遣れば、口を半開きにして惚けたような顔でこちらを見ていた。


「いま、舐めた…」
「ああ」
「……」


は何も言わず、なんともいえない微妙な表情でまた先程までと同じようにドーナツの山へと顔を向けた。
だが、さっきまでとは違い、目はそちらに向けていてももうその心は目の前の甘味からは離れてしまっていることが見て取れる。
今、彼女の中を占めているのは別の甘さだ。その証拠に、ドーナツを食べる手はすっかり止まってしまっている。
鼻や舌から伝わる甘さよりも、それはより深くまで浸透する。


侵食されればいい。自分がその甘さに侵されてしまったのと同じくらいに深く根強く。


の横顔が赤い。
1,2…頭の中でゆっくりと数える。

目の前のドーナツよりも世にある全ての菓子よりも、さらにどうしようもなく甘いものを求めてが振り向くまで、あと―……




とある侵食された午後のこと