バージルの漏らした小さな溜息は、時計の音のみが支配する空間の中で予想以上に大きく響いた。
ちりちりと刺すような視線を感じる。
けれどそれに気付かぬふりをして、は本のページをめくった。
特に興味も引かれない陳腐な恋愛小説。ベストセラーだというから試しに買ってはみたものの、既に飽きてしまっていた。
だが、それでもページをめくる手は止めない。
これは防衛線だから。

生き物の声も物音ひとつさえも聞こえてはこない。ただ、闇に潜む命だけが静かに蠢いている夜。
窓から覗く空には雲がかかり、星も月も顔を見せてはいなかった。

する、と衣擦れの音がした。本から視線だけを上げると、バージルが先程のと同様に窓の外を眺めている。
部屋の灯りを受けて、瞬きをする度に銀色の睫がきらりと光る。
ソファにゆったりと腰掛けながら頬杖をつくその姿があまりにも様になっていて、は思わず息をのんだ。
ゆっくりと、バージルがこちらへと顔を戻す。
その蒼い目とぶつかる前に、はまた本へと視線を落とした。

バージルがじっと自分を見つめているのが解る。
髪から首筋、肩、本を持つ指先。視線だけでまるで触れられているような感覚がする。
これも一種の悪魔の力なのだろうか。
バージルがまた、小さく息を吐く。

この焦れるような視線と溜息が何を表しているのかはわかっている。
きっと雲に隠れた月は丸く白い。
半魔といえどその実は魔性。月が満ちれば、魔が騒ぐ。

視線が合ってしまえばきっと逃れる術などありはしない。
別に拒否しようなどとは思わないが、そう簡単にあの悪魔に食われてやる気もなかった。


そう、これは一種のゲーム。


冷静に見えて、実はあまり我慢強い方ではないバージルが折れるのが先か、それとも。

バージルは決してに甘い言葉をかけることはしない。
彼の矜持がそうさせているのか、彼に付き纏う黒い過去がそうさせているのかは定かではなかったが。
とにかく、彼は自分から手を差し伸べることを避けているのだ。

バージルの視線は外れない。
焦がれるような視線を送っているくせに、あの薄い唇は決定的な言葉を紡ぎはしない。


は徐に本を閉じて横に置いた。
防衛線が、取り払われる。


「もう、寝るね」


そう言って立ち上がり、わざとゆっくりとバージルの横を通り過ぎる。
の手が、掠めるようにバージルに触れた。


、」


瞬間、バージルの手がの手首を捉えた。
視線がぶつかる。

彼はただ眉間に皺を寄せるだけで、何も言おうとしない。
その顔に浮かぶのは、かすかな苛立ちと、そして。

はバージルの言葉を待った。
ずっと避けていた視線を、真っ直ぐにその蒼い目に向ける。
(言って。わたしが欲しいと。欲しくて堪らないと、その唇で)


バージルにゆっくりと手を引かれる。
導かれるように彼の膝の上に跨った。
薄い唇が少しだけ開き、何かを言おうとして、また閉じた。
(ああ、なんて焦れったい!)


「ねえ、バージル」


バージルの顔を両手で包み、唇が触れるか触れないかのところまで顔を近づけ、囁く。
感じる吐息が熱い。


「どう、したいの。わたしを」


ちり、と空気が焦げるような感覚が走る。
バージルは答えず、代わりに齧り付くようなキスが返ってきた。
淫猥な音と共に舌が絡まる。
バージルの右手がの髪を掴み、左手が太股を乱暴な手付きで弄る。
その手がノースリーブのワンピースをたくし上げて、内股から腰、脇腹を通ってするりと右の膨らみを撫でた。
くすぐったさに身を捩ると、音を立てて唇が離れる。


「欲しい、、」


お前の全てを、俺に寄越せ。



バージルは低い声でそう言って、また獣のように齧り付いてきた。

欲しかった言葉。バージルが自分を求める声。
喜びに頭がくらくらするようだ。

バージル、わたしも、と貪る唇の合間から言って、ささやかな勝利に酔いしれながらは身体を這う愛しい悪魔の手に全てを委ねた。



殺す言葉を知っている