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声を失った鳥 今日の天気は一日晴れ。宛がわれた自室の窓から覗く空には雲なんかひとつもかかってなくて、優しい風がすこしだけ吹いている。 は椅子にもたれかかるようにして座り、外を眺めていた。 絶好の洗濯日和。散歩日和。お昼寝日和。 バスケットにサンドイッチと果物でも詰めて、ピクニックにでも行けたら最高だろう。 家のソファでだらだらと過ごしているだけでも良いかもしれない。 けれど、一体如何した事だろうか。 暖かく照らす日差しも外から聞こえる楽しそうな笑い声も、カフェオレボウルから立ち上る甘い香りさえも、何一つ今のにとっては心動かされる要因にはなりはしなかった。 別に嫌なことがあったわけではない。ただ、全てにやる気がおきないのだ。何もかもに対して。 「はあ」 の口から、今日何度目かの溜息が漏れる。溜息をつけば、その数だけ幸せが逃げていくという話を聞くが、それが真実だとしたらの将来は真っ暗、不幸のどん底だろう。 膝に置いてあった読む気もない本が、ばさりと床に落ちる。読書のためにと留めてあった前髪が、さらりと額に落ちてきた。 ついでに、肘掛に置いていた腕も、ゴム人形か何かのようにだらりと垂れ下がる。 おそらく、今自分は酷い顔をしているのだろう。魂の抜けた肉塊だ。全身の筋肉が弛緩しているかのような感覚。 こんな風に突然無気力状態に陥るのは今回が初めてなわけではない。 ごく偶に…3ヶ月くらいに一回、はこういう不安定な状態になる。 いっそのこと眠ってしまえばいいのかもしれないとも思うが、こういう時に限って睡魔はちらりとも姿を現さない。 結局眠ることも動く事もしないまま、惰性で息をする気味の悪い置物のような状態になってしまうのだ。 「はあ…」 このまま息をすることさえ面倒になって、目を閉じて呼吸を止めてしまったらと想像して、やめた。 考える事すら面倒だった。 「…8回」 突然聞こえてきた声のほうをちらりと見やると、いつの間に入ってきたのか、片手にコーヒーを持ったバージルが立っていた。 その姿だけ確認して、声もかけずにまた目線を正面に戻した。どこを見つめるでもなく、ただぼうっと目を開いているだけであったが。 ずるずると、椅子の上から自分の身体がずり落ちてきているのを感じる。 けれど特に座りなおそうとも思わなかった。はあ、とまた無意識のうちに溜息が零れた。 「9回」 「…なに」 意味不明の数を口にするバージルにすこしだけ苛立って尋ねると、俺がこの部屋に来てからお前が溜息をついた数だ、という答えが返って来た。 バージルがいつ来たのか全く分からなかったから、それが多いのか少ないのかも判断しかねたが、おそらくは大分多い部類に入るのだろう。そういう自覚はあった。 それと同時に、溜息の数を数えるだなんて案外バージルもくだらないことをするんだな、と思った。口には出さなかったが。 「外はお前の頭の中のような天気だ。出ないのか」 いつもならここで、煩いな放っておいてよ、と可愛げのない言葉が飛び出すのだが、今日はそれすら出てこない。 代わりにまた小さな溜息が出て、それを聞いたバージルの眉が少しだけ顰められる。 「」 「なにか用?」 名を呼ぶ声に返した言葉は、音になっていたかどうか。少なくとも、自分の耳には音は入ってこなかった。 「具合でも悪いのか」 「疲れているのか」 具合が悪いわけではなく、特別疲れているわけでもない。小さく首を振ると、今度はバージルの口から溜息が漏れた。 (うごきたくないの) 声には出さず、微かに唇だけで返事をする。 多分解らないだろうなと思っていたが、バージルは正確に唇の動きを読み取り、どうしてだ、と問い返してきた。 どうして、だなんてそんなの解らない。こっちが聞きたいくらいだった。 バージルは暫く呆れたような、怒ったような顔でこちらを見つめた後、ゆっくりと近付いてきた。 その動きを目だけで追う。こつり、と靴のかかとが鳴って、バージルがの正面に立つ。 「!」 バージルは徐に左手を膝裏に手を入れ、右手で背を支えてを持ち上げた。 それは俗にいうお姫様だっこというものだった。 特に抵抗する理由も気力もなかったはそのままバージルに身を任せる。降ろされた先は寝台だった。 「昼寝でもしろ。起きたら出かけるぞ」 眠たくない。出かけたくない。 声は出さずに、また唇だけで伝える。 バージルは黙って、寝台に手足を投げ出して人形のように横たわるを見下ろした。 差し込む光の影になって、バージルの表情がよく見えない。 暫くして、わかった、と言う声が聞こえた。 「…眠りたくないなら別に寝なくても良い。出かけたくないならそれでも構わん」 ふと、バージルの右手が伸びてきて、わたしの髪を撫でた。 普段鋭い刀を持って悪魔を切り裂いている手と同じものだとは、とても思えないような優しい触れ方。 その手は髪から瞼、目尻、頬を通って唇を辿った。 「何か、話せ。お前が黙っていると不安になる。このまま、」 その先を言おうとしてバージルの口が開き、また閉じた。 このまま、何? その続きを促すようにして、はするりと手を伸ばしてバージルの頬に触れた。 「声を、聞かせろ。何でも良い。お前の、」 バージルの声が少しだけ、ほんの少しだけ震えているような気がする。 ああそうか、そういうことか。 この人は思い出しているのだ。かつて失った誰かを。そのひとの唇から声が永遠に失われた瞬間を。 「」 自分の名前を呼ぶバージルの声が、じわりと染みていくような気がした。 それは氷がゆっくりと溶けていくような感覚。 「バージル」 先程まで鉛のように重かった唇がすんなりと開き、驚くほど滑らかに声が出た。 弛緩しきっていたゴム人形のような身体に血が巡る。 「ちょっとだけ昼寝するから、それから出かけよっか」 「…ああ」 少しだけ逡巡した後、返って来たバージルの声はどこか満足気だった。 目が覚めたら、お菓子とお茶でも持って出かけよう。 そうして、心配性の悪魔の為に歌でも歌ってあげようか。 |