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その日、珍しくは早起きだった。 どれくらい早起きだったかというと、なんと起きた時に朝日はまだ昇っていなかった。 正確な時間は分からないが、おそらく4時前後だろう。普段ならば絶対に起きない時間だが、目が冴えてしまってどうしても眠れなかった。 前日は昼過ぎまで寝ていて、また夕方くらいに一眠りをして、それから夜八時には寝てしまっていた。それが原因だろう。 無理矢理にでも眠ろうと、ベッドの中で寝返りをうつ。 そこで、誰かがシャワーを浴びていることに気付いた。 この家でシャワーを浴びる人物などと、あとは一人しか居ない。 そういえば前日は一度もバージルに会わなかった。起きた時にはバージルはもう出掛けた後だった。 その前も会っていない気がする。 バージルの生活は不規則だ。今日のように朝方帰ってきたり、本を読んで徹夜をしたり、かと思ったら歳を取ったお婆さんでもまだ起きているような時間に眠りについたりする。 不健康だ、と思うけれど悪魔である彼がそれで身体を壊すとは思えないので、特に口を出す事はしない。 ただ、とバージルの生活リズムが合わない為、同じ場所で生活している筈なのに何日も会えなかったりすることが、不満といえば不満だった。 どうせ眠れないことだしちょっと顔でも見てこよう、とベッドを降りて階下へ向かった。 「なにこれ…」 居間に入って、すぐに目に飛び込んできたのは見慣れたバージルの青いコート。 しかし、上質でどこか高貴な雰囲気であったコートは今、切り裂かれた様な無数の穴と限りなく黒に近い赤い血で汚れており、もはや原型を留めていなかった。 「血?」 かつてコートであったそれを指で摘み上げる。この血が全てバージルの血であったとしたら、それは大変なことだ。 たとえ彼が悪魔で、人間のように脆弱ではなかったとしても、流れる血は確実にダメージを与える。 一体何がと考えたところで、部屋の扉がキィと鳴った。 「バージル」 振り返ると、バスローブを羽織ったバージルが立っていた。水を吸った髪は垂れており、ぽたぽたと雫が床を濡らしている。 いつもは後ろに流しているため気付かなかったが、バージルの前髪は長くて、丁度目元が隠れるくらいだった。 部屋の中が暗い所為もあって、その表情を読み取ることは出来ない。 「帰ってたんだ、ね」 バージルはが持つコートをちらりと見て、ああ、と一言だけ返した。 いつもは輝くばかりの銀髪が、くすんだ灰色に見えるのは気のせいだろうか。 その灰色から落ちる雫を見て、雨雲から落ちる雨のようだと思った。 一体何があったの、とかこのコートはどうしたの、とか聞きたいことは沢山あったが、バージルが纏う空気がそれを聞かれることを拒否していた。 「ふいてあげる」 タオル貸して、と言ってバージルに近付く。 肩にかかっているタオルに手を伸ばしたところで、その手を捕らえられた。 その力が余りに強くて、思わずは顔を顰める。 「」 名を呼ぶバージルの声は、もう音になってはいなかった。その口が何かの言葉を紡いで、捕らえられた手が思い切り引かれる。 顎を掴まれ上を向かされ、降ってきたのは噛み付くようなキスだった。 突然の出来事に対処できずにされるがままになっていると、その唇が額に、頬に、耳の後ろに、首にと移動してくる。 バージルが頭を動かすたびに、雫がぽたりと落ちての顔を濡らした。 その雫は床にも落ちて、いくつもの小さな水溜りを作る。 「つめたいよ」 すこしだけ強い口調で抗議する。するとまた唇を塞がれた。今度はただ優しく触れるだけの。 「俺は、」 いつもは尊大な威圧感を生む青い目までもが灰色に見える。 「例えお前が拒否したとしても、手放すつもりなどない」 「逃げたいのなら、逃げてみろ」 追いかけて捕まえて縛り付けて閉じ込めてやる。 低い声が、まるで呪詛の言葉のように耳に響く。それは感情を表に出す事を厭うバージルの、表層に現れた独占欲。 吐露された感情の激しさに一瞬ひるんだ。それと同時に喜びとも恐れともつかない感覚が背中を走り抜ける。 いきなり何を言い出すの、といつもの調子で笑って誤魔化してやろうと思ったが、頬がいびつに歪んだだけで笑いの形にはならなかった。 「バージル、わたし、」 「黙れ」 続く言葉を聞きもせずに強く抱きしめるバージルに逆らうこともできず、はまるで操られた人形のように、その背に腕を回すしかなかった。 水溜りにうつる愛 |