|
「もういい、もう出て行くから」 「…勝手にしろ」 あまりにもあっけない。ほんの一瞬でも、もしかしたらこの人は私を好いていてくれるかもしれない、そう思った自分が馬鹿だったのだ。 彼はやっぱり悪魔で、彼から見たら私なんてその辺に転がっている石ころと同じようなものなのだ。(これを誇張だとは思わない。実際、彼は同じような意味合いのことを言ったのだから。) 出て行くと騒ぐのはこれが最初ではない。今までも何度か同じことがあったが、結局自分がバージルと離れるのが嫌でずるずると続けてきた同居生活。 しかし、それももう終わりだ。 喧嘩の理由は些細なこと。本当に、どうしてあんな些細なことでここまで腹を立ててしまったのか分からない。 だが最早引き下がることは出来なかった。ひとつには、自分が頑固者で素直に謝罪なんてできない性格であること、もうひとつには、疲れてしまっていたのだ。 バージルの一挙一動に振り回され、彼が気紛れに寄越す言葉を良いように解釈して期待を持って。 結局は全て自分の幻想で、現実には起こりえない事だったということだ。 「…馬鹿みたい」 口の中で言葉になるかならないかの大きさで呟く。 道化だ。今まで自分はまさに道化というに相応しかった。やっとそれに気付くことができたのだ。すこし遅すぎたけれど。 足音も荒く自室へ駆け上がり、乱暴に扉を閉めて座り込んだ。 目の奥がつん、と痛む。自分はもうすぐ泣くのだろうと、なんだか他人事のように思った。 たたむ事も整理する事もせずに、大きな革の旅行鞄に衣服や小物をめちゃくちゃに詰め込む。 早くここから離れよう。これ以上傷つく前に。後戻りできなくなってしまう前に。 膨らんだ鞄から衣服がはみ出して、なかなか閉まらない。いらいらと力任せに押し込んで無理矢理に閉めた。 まるで自分のようだ。こうして此処を出て行こうとしているのに、結果は分かりきっている筈なのに、想いが溢れて止まらない。 大きな溜息をついて、下を向く。そっと耳を澄まして階下の音を聞いてみたが、物音ひとつせず静かなものだった。 そうして、この期に及んで無駄な期待をしている自分に気付いて嫌気がさした。 まだ涙は流れてこない。大丈夫だ。 窓の外を見ると、夕日が目に痛いくらいだった、 夜は冷え込むしこの界隈は治安が良いとは言えない。出るならば直ぐのほうが良い。 そういえば、この間買ったマフラーはリビングのソファーの上に置きっぱなしだった。 あれこれと理由をこじつけてバージルを街に引っ張り出した時に買ったもの。(今思い出しても素晴らしい快挙だと思う。あのバージルを外に連れ出せたのだから。) けれどリビングにはバージルが居る。いま顔を見たら、また決心が鈍って元の木阿弥だ。マフラーは置いていくことにしよう。 重い鞄を引き摺って、は階下へと向かった。 足早に階段を降りて玄関へ向かうと、驚くべきことに、バージルが待ち構えていた。 またしても、の心の中に湧き上がる期待。もしかしたら、引き留めるために待っていたのではないか、と。 だが、次に彼が示した行動はそれを打ち砕くものだった。 「…忘れ物だ」 そういって、あのマフラーを差し出す。 また夢を見てしまった。このひとはそういう人ではないと分かっていた筈なのに。 自分は今酷い顔をしているのだろう。顔の筋肉が意思に反して歪んだのを感じたが、止められない。 喉が熱くつっかえるような感覚。 だがまだだ、まだ大丈夫。まだ涙は流れてこない。 バージルが急かす様に、マフラーを揺らした。 早くとれ。そして早く出て行け。 には、そう言っている様に見えた。なにもかもがマイナスの方向に見える。 このひとは残酷だ。わたしがどう思っているか、知らないはずは無いというのに。 「………」 無言でマフラーを受け取る。 否、受け取ろうとした。 「」 マフラーが、ばさ、と床に落ちた音がした。 わたしの手がマフラーに届く前に、バージルの大きな掌がわたしの手首を捕らえた。 一瞬、頭の中が白くなる。 今まで、一度たりとも彼の方からわたしに触れてくることなど無かった。ただの一度もだ。 視線を上げることが出来ず、じっと捕らえたその手を見つめた。 振り払おうと思えば、簡単に解ける程の弱い力だったが当然振り解くことなど出来るわけがなかった。 全身の血が沸騰するようだ。ただ手首を掴まれている、それだけのことだというのに心臓がめちゃくちゃに走り回る気分。 「…なに」 「…」 「何か、用なの」 「…」 冷静を装って、静かに声をかける。(実際は震えていたと思う) 視線は下げたまま。 バージルは何も言わず、手首を握る力を強めた。 「痛いよ」 「…」 「バージル、放して」 「ねえ、放し、」 「」 普段よりも、少しだけ弱い調子で名前を呼ばれ、とうとう顔を上げる。 視線が絡まった。 いつもは裂かれるような斬られるような感覚をわたしに植え付ける青い目が、すこしだけ、ほんの少しだけ揺らいで見えた。 彼にその自覚があるとは思えないけれど、その揺らぎが表す名をわたしは知っている。 バージルの空いている方の手がゆっくりと持ち上げられ、指先がわたしの頬に触れた。 かすめるように、一瞬だけ。 なんだかそれでもう、全てが分かってしまったような気がした。 また都合の良い勘違いかもしれないけれど。 緊張が緩んで、視界がぐにゃりと歪んだ。慌てて下を向くと、床にぽたりと染みができた。 「ここは寒い」 バージルは素っ気無く一言そういうと、わたしの手をひいてリビングへ向かった。 部屋に一歩近付く度に、暖炉の暖かさがわたしを包んでいくような気がした。 沈むような心地良さが吐き出した絶望 |