Martedi
Martedi





力が欲しい。


あの時、ゆっくりと静かな呼吸を繰り返す女を見つめながら、強くそう思った。薄暗い部屋の中、浮かび上がるような蒼白い腕は、痛々しく血の滲む包帯に覆われていた。
かちかちと小さく時を刻む音だけが、この部屋にある音の全てだった。
女の眠るベッドの脇、アンティークの椅子に座り、バージルは強く両手を握り締めた。瞬間、ぎりりと皮の手袋が音を立て、また時計の音だけが聞こえる静寂が部屋を支配する。

膝に肘を付き、祈るように握った両手を額に当てる。目を瞑ると見えるのは闇だ。いや、目を開けていてもそれは変わらないのかもしれない。

心など、ひとの持つ弱さの具現だと思っていた。伸べられた手を、要らぬと何度振り払っただろう。だが、あたたかなその手は決して去ろうとはしなかった。
手をとった瞬間、バージルは人になった。忌避し続けてきた人としての心が、悪魔としての冷徹な己を覆い隠してしまった。妄執してきた力への欲求は薄れ、悪魔を斬り己を高みへの導くための刀は、その場の命を繋ぐための唯の手段となってしまった。以前の己が今の己の姿を見たとしたら、その愚かしい姿を直視出来ず斬り捨ててしまうだろう。
それでも良いと思った。この手を離さぬと誓った。命に代えても守り抜くと心に決めた。出来ると思った。

だが、それは自惚れだと知った。己の身を守ることは容易い。生半な刃や牙など、この悪魔の肌には通らない。しかし、人の、肌は違う。柔らかくあたたかく、包み込む脆い腕は簡単に傷付き血を流す。人間を守るということがこんなにも困難なことだったとは。

シーツから出た、人形のような腕。かすかに漂う血のにおい。生臭い悪魔の血とは違うその芳しい血の香りは、確かに彼女の腕から発せられていた。

己の中に流れる裏切りの血、それに引き寄せられて悪魔は際限無く湧き続ける。仕留め損ねた塵のような矮小な悪魔の爪にかかって、いとも簡単に彼女の皮膚は裂け、命の赤い水が流れ出た。
ゆっくりと倒れる彼女の姿を視界の端に、バージルの心は嵐のように狂った。悪魔の名の通りの醜悪な姿で敵を全て斬り殺しても、裂けた人の肌は戻らない。錆びた鉄のような爪で抉られた彼女の傷は、癒えたとしても生涯消えはしないだろう。


力が欲しい。


己の為ではなく、この女の為に、力が欲しい。何を失っても構わぬ。血を差し出せというのならば差し出そう。罪を犯せというのならばその通りに。
欲しい、どうしようもなく欲しい。


「バージル、何を祈ってるの?」


ふいに、シーツの中から小さな声が聞こえた。気が付けば、まるで祈るように彼女の手を握り額に当て、頭を垂れてしまっていた。力なく握られるばかりであった小さな手が、あたたかく握り返してきた。枕に沈む頭、その額にかかる髪をどけてやる。彼女は、少しだけ擽ったそうに身を捩った。

また、以前のように力の探求の為に動くのならば、この娘を連れてゆくことは出来ない。
恐らくは、今まで出会った事の無いような強大な悪魔に立ち向かわねばならなくなるだろう。
人間である脆い彼女の存在は、確実に己にとってのアキレスの踵になる。

(…矛盾している)

この手を離さぬ為に、離さなければならぬなどと。
、」とその名を呼んで、額にそっと口付ける。彼女の額が熱いのかそれとも己の皮膚が冷たいのか、触れた唇が焼けるようだった。

バージルの心の動きを読み取ったのか、が不安そうに瞳を揺らめかせた。がこのように不安そうな顔をするのは、バージルを案じている時だけだった。自分自身の傷など気にもかけない。

「バージル」と小さな声が己の名を呼ぶ。その声は、バージルの心をどうしようもなく締め付けた。
腹の底から生温い感情が湧き出して、喉までせり上がり息を震わせる。鉄の鎚よりも重く、鋼の刃よりも鋭く、その感情はバージルを苛む。
だが失おうとは思わない。この痛みすらが愛おしい。この娘がもたらすものならば。


力が欲しい。


この娘が、もう二度と不安そうな表情を浮かべる必要の無いように。
其の為に必要なのは、祈りでも救いでもなく、純然たる力だった。
かつて、多くの人間を救ったというスパーダの力。それが欲しい。
悪魔の証、血族の証明の為ではなくただひとりの人間を守るために。









Grasso
Grasso









最後に彼女を見たのが、遠い昔のことのように感じる。
あの時、愛するが故に別離を選んだ己に、彼女は何と言ったのか。
が己にかけた言葉ならば全て覚えていたと思ったのだが、日を追うごとに、力が強まる度に、その記憶は風に吹かれた灰の如くにバージルの中から消え去ってゆく。
だが、彼女が呼んだ己の名だけは、今も耳に残っている。
そうだ、全てはのため。己の所業、その正誤など些末事でしかない。


力が欲しい。


それだけが今、バージルを動かす全てだった。
この手に光る二対のアミュレット。金と銀の鈍い輝き。銀のアミュレットには、未だ渇かぬ赤い血がこびり付いている。そこに映りこむ己の表情が苦々しげで、バージルはそのアミュレットのいささか乱暴に胸元に仕舞った。







Lei non ritorna anche se spiacente.







「バージル」


あの声さえ、守れれば。
他は、何も、








(080508)