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魑魅魍魎が這い回る丑三つ時。 か、と目を見開くと暗い天井に薄らとついた染みが見える。 黒とも茶ともつかぬそれが、童の頃はまるで怪のように見えたものだった。 だが今では、あの染みよりもずっと恐ろしい怪を知っている。 身体中がじとりと湿っているのを、夏の夜の暑さの所為にするには些か足りぬ。 掌までもが汗ばむのを見ながら、ぎゅう、と己を身体を抱きこんだ。 吐き出す息はこの夜と同じように熱く、湿っている。 目を閉じれば目蓋の裏に、先程までの夢が蘇った。 くねる蛇のような白と、散る紅が、夜毎に幸村の芯を苛む。 初めてその蛇を見たのも、このように暑い夜のことであった。 その時幸村はまだ、どうして夢の中にその蛇が出て来るのか分からなかった。ただ、己が酷く汚い生物になってしまったような気がして、恐ろしかった。 暫くして、己がその蛇にどうしようもなく惹かれていることに気が付いた。 気が付いてからは毎晩のように蛇は夢の中へやってくる。その夢から覚めるたびに、とてつもなく空虚で、飢えにも似た感覚に襲われるのだった。 昼間、蛇は女の姿を取って幸村の前に現れる。いや、逆だと言ったほうが正しいやも知れぬ。 彼女の名はと言って、幸村の父の旧い友の娘だった。武田で作法を学ぶためと言って、今では武田の館で侍女を務めている。 とは幼き頃に何度か会ったきりで、再会した時も幸村はその顔すら覚えていなかった。 「と申します」 そう言って三つ指をつき頭を下げた女が、まさか己をこれほどまでに苛むことになろうとは、あの時は思いもしなかった。 覚えてはおらぬが幼き頃よりの、と聞けば自然と距離も近くなる。 そうして、気が付いたときにはすっかり囚われてしまっていたのだ。 昼、日が出ている時には、は穏やかな笑顔と鈴の鳴るような声で幸村を呼ぶ。 その声を聞けば心が弾み、自然と頬が赤らむ。 共に話して、時折共に出掛ける。 そうしている間、白は見えない。あるのはただ、邪魔な衣と穏やかな笑みだけだ。 そして夜、日が隠れ闇が全てを包んで後は、は白い蛇になって幸村の夢へと現れる。 その声を聞けば心の臓が破れそうな程に高鳴り、視界が明滅し、世界が蛇と幸村だけになる。 目に痛いほどの白に紅を散らす行為に没頭し、蛇にからみつき咬合して此の世の極楽を見ようと躍起になるのだ。 蛇は甘い声で鳴いて、獣の息を吐き、幸村を絡め取って比良坂を下らせようとする。それに抗う術は無い。 堕ちる寸前に目が覚めると、今度は喉を掻きたくなるほどの飢えに襲われる。猛る己を己自身で鎮めてもまだ足りず、腸の内で獣が暴れた。 「近頃、蛇の夢を見るのだ」 「まあ」 「白い蛇だ」 「幸村様、それは吉兆でございますよ」 働くを無理に捕まえて縁側で茶を飲んでいたときのことだ。どうしてだか、その蛇のことをに伝えたくなった。無論、蛇がの顔をしていることなど伝えはしない。 彼女は「良い夢をみましたね」と言って笑った。 「毎晩見るのだ。夜毎に某を苛んで、苦しめる。それでもこれは吉兆か」 「さあ…には夢見は出来ません。軽々しいことを言ってしまい申し訳ございません」 「いや」 口調がきつかったのだろうか、は少し悲しそうに俯いた。そのような顔をさせたかったわけではない。だが、言葉は出て来ぬままに、暫しの沈黙があった。 ちらと横を見れば、は俯きながら足元を見ていた。その横顔を風が撫でて、絹のような髪が揺れた。 「某はもう、あの夢を見たくはない」 「…そうですか」 「蛇は、某を飢えさせ殺す心積もりであろうが、そうはさせぬ」 訳が分からぬ様子のが、首をかしげた。 白い顔に、紅く色づいた唇が酷く旨そうに見えた。 手を伸ばすと、びくり、と小さな肩が震えた。怯えたが身を引くよりも早く、その腕を掴んで己のもとに引き寄せる。 黒い目が驚きに見開かれ、花の匂いが香った。 「ゆ、幸村さま」 「死ぬより先に某が、あの蛇を喰ろうてやる」 つ、と舌でなぞった紅色の唇は思ったほどには甘くない。 目を閉じると目蓋の裏で、白蛇が赤い舌を出しながら、喰ろうてみよと言いたげに身体をくねらす幻が見えた。
恋ひ死ねとするわざならし むば玉の 夜はすがらに夢に見えつつ (090730) |