夏だというのに、酷く寒い晩だった。
ごうごうと風が鳴り響き、木々が乱暴に揺すられて軋みを上げる。
眠りの訪れぬこんな日には、はいつも幸村の元を訪れていた。だが、今日はそれが出来ない。
麓の村が野伏に集団で襲われているとの報を受け、夕方から数十の兵を連れ、出て行ってしまったのだ。
がたがたと、柱が鳴る。もうすぐ雨も降り出してくるだろう。
幸村は大丈夫だろうか、と考えながら床につく。夜着に鼻まで埋もれながら、ぎいと屋敷が軋む音を聞いていた。
月の光の無い暗闇のなかでは、ちらりと蠢く影すら化け物のように見えて恐ろしい。
そのような恐ろしいものを何も見ずに済むように、はぎゅうと目蓋を瞑った。

そうしているうちにいつの間にか睡魔に捕えられたようだった。
かたり、と音がして夢から現世へと意識が戻ってくる。
ああ、いつの間にか眠っていたのか。そう思いながらもそのまま目を閉じていると、ふと、隣に人の気配がした。
ぎくり、と心の臓が跳ねる。
荒々しい気配だ。息遣いは風音に消されて聞こえないが、本能が逃げろと命ずる。
目も開けられぬままに息を潜めていると、ふと、気配が揺らいだ。


「…起きてしまわれましたか」


隣の恐ろしい気配は、がよく知る声でそう言った。
「…幸村?」
本当にそうだろうかと疑いながらその声の主を呼ぶと、「はい」と短くいらえがあった。


「お帰りなさい、幸村…」
「只今、戻りましてござりまする」


目を開けると、いつもの腹や胸を出した戦装束ではなく、着物の上に鎧を着けている男の姿が飛び込んできた。
月の無い夜だ、暗くてよくは見えないが、恐らくは幸村だろう。そうであって欲しい。
ゆっくりと夜着から身体を起こすと、夜の冷えた空気に肌が粟立つ。
びゅう、と風がいっそう強く吹いた。


「村は、無事でしたか」
「多少の被害は出ましたが、大事ございませぬ」
「そう、よかった」


がたがた、と障子が鳴った。
それ以上何を言っていいものか、口を噤む。暫くの沈黙が流れた。
いつもならば軽口にひとつでも叩けようが、幸村のまとう異様な雰囲気に、そのようなことを言うのは憚られたのだ。


「…そちらの村で夜を明かしてくるものと思っていました」
「某もそのように致そうかと思っておりましたが…」
「…が?」
「今宵は風が騒がしい。姫が怯えて眠れずに居るのではと思い、戻って参りました」
「そうだったのですか、どうもありがとう」


夜着から出た身体がいやに寒く、無意識に腕で身体を抱いた。
風邪でもひいたのだろうか、寒気がする。


「寒うございますか」
「いえ」
「お風邪を召すようなことがあれば大事、どうぞお休み下さいませ」
「…まって!」


す、と下がろうとする幸村の腕を咄嗟に掴む。
掌に湿った感触と、乾いた泥が落ちたような感触の両方が伝わった。
幸村がはっとしたように息を飲み、「姫、御手が汚れまする。お放しくださいませ」と静かに言った。
そこで、ようやく暗闇に慣れた目が、幸村の表情を捉えた。

能面のような無表情だ。きり、とした目元も引き結ばれた口元も、いつもの幸村だが表情が無い。目に光が無い。それはおそらく、月が無い所為だけではなかろう。
まるで知らぬ人間のようで、思わず、怯む。
しかもよくよく見れば、その能面のような顔が何かで汚れている。
じい、と観察して、それが泥と、それから…血であることが解った。


「幸村、け、怪我をしているのですか?」
「いえ」
「でも、血が…」
「某のものではございませぬ」


では誰の、だなどという質問など出来る筈が無い。
見れば、鎧の下に着けている白い着物にも、赤の斑点が散っていた。同じ色で見えぬだけで、その赤い鎧にはもっと多くの紅が散っているのだろう。


「…恐ろしいものを見せてしまい申し訳ございませぬ」
「おそろしい、だなんて…」
「血は恐ろしゅうございましょう。某は姫に恐ろしいものを見せたくはないのです」
「…そんな、ことは」
「何一つ、見せとうはございませぬ」


幸村の声は低い。低く、そうして恐ろしかった。
何一つ恐ろしいものは見せたくない。その幸村の言葉に、幸村自身が入っているであろう事を感じて、は幸村の腕を握る力を強めた。


姫、某は此れにて下がらせて頂きまする。腕を」
「いや」
「姫、お放しくださりませ」
「いや、放さないわ。わたし、幸村を怖いだなんて思っていません」


そう言いながら、その声も握る手も、震えてしまっていた。
血が怖いのではない。幸村が怖いのではない。では一体何が怖いのか、と聞かれても答えられないが、ただただ震えが止まらなかった。


「姫」


静かな声がする。
まるで童を宥める母のように優しい呼び声だ。だがそれも、今この場においては酷く恐ろしいもののように感じられた。
古今東西、人を食わんとする化物は皆、優しい声で人をかどわかすという。それを何故か、思い出した。


幸村の両腕が動いた。
篭手をつけた大きな手が、の腕を掴む。
その硬さと冷たさに、びくりと身体が震えた。
幸村の身体が、顔が、ゆっくりと近付いて来る。
怖気づいて退こうにも、腕を掴まれていては逃げることすら出来ない。

ゆっくりと近付く、血と泥に汚れた顔。
ああ、これが戦人の顔なのか。


「姫は、鬼を見たいと申されるか」


唇が触れるかという距離で、赤い鬼がそう囁いた。

はただひたすら、懸命に首を振った。
何が何だか解らず、考える間もなく身体が嫌だと動いた。

の拒絶を目にして、赤い鬼がゆっくりと離れてゆく。
掴んでいた腕を放し、そうして、まるで見せ付けるように焦れるほどゆったりとした動作で立ち上がり、こちらに背を向けた。


「お休みなさいませ、姫。また明日の朝、お会い致しましょう」


障子が開いて、幸村が出てゆく。
ぱたん、と閉まった障子から、幸村の影が見えなくなってしまうまで、息をすることすら出来ずに震えていた。

掴まれた腕には、まるで悪鬼でも掴んだかのような痣が残っている。


「…いたい」


呟いた声は、風が全て吹き消した。







(090714)