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「、俺はきっと三国一の幸せ者だ」 ようやく歩くようになってきた小さな息子を抱き上げて、自然とそんな言葉が出た。 それを聞いたが、「当然でしょ」と笑う。 その笑顔が眩しくて、息子を抱いたまま近付いて、も一緒に抱きしめた。 あたたかく柔らかい大事なものを二つ腕に抱いて、これを守るためならば死んでも良いと思った。 行ってらっしゃい、と屋敷の門で、が手を振る。 「大助、父上がお出掛けですよ。ほら、ばいばいしようね」 とはふわふわした小さな細い手を振らせた。 母によって無理矢理手を振らされた息子が、こちらを見て、それからの胸に頭突きをするようにして顔を埋めるのが見えた。 早起きさせられたのが不満なのだろう。幸村は良いといったのに、が連れてきたのだ。 「ではな、行って来る」 「はい、いってらっしゃい」 最後にもう一度だけ二人を返り見て、胸がじわりと温かくなった。 きっとこれが、幸せというものなのだろう。 は、ある日突然、本当に突然現れた異界の女子だった。本来であれば交わらぬであろうこの世ならざる場所から来た女子と、今は夫婦として暮らしている。 幸せとは、仕合せともいう。と会って、幸村はその言葉の真実の意味を知った。 子宝(しかもおのこだ)にも恵まれ、今幸村にはこの世の幸福の全てがある。 「旦那、顔緩みすぎ」 どこからか呆れた様な声があった。その声の主を探したりはしない。忍びのことだ、どうせ見えるところになど居はしないのだから。 今日は躑躅ヶ崎館で軍議がある。帰りは恐らく明日になるだろう。 出来るだけ早くに帰りたい。そう思いながら、用意された馬に跨った。 その悪夢は突然やってきた。 長く続いた軍議にもようやく終わりが見え、仔細はまた明日に、といってお館様がその場を閉めようとしたときだ。 「失礼。幸村様のお耳に入れたいことがございます」 障子の向こう、蝋燭の明かりに揺れる影は佐助のものだった。 お館様や幸村以外の武将が居るなかで、佐助がこうして姿を現すのはそう無いことだ。お館様や幸村は忍び使いだが、武将のなかにはやはり忍びを良く思わない者達も多い。 佐助もそれを重々承知しており、特に忍び嫌いの者が居る場では決して顔を出そうとはしない。 それを、軍議も閉めぬ内に姿を現したのだ。その口調に、いつものような軽さは皆無であった。 余程のことがあったのだろう。幸村も、そして他の者達も一様に身を硬くした。 「構わぬ。そこで申せ」 こそこそと話されるのを嫌う者があることを考慮し、そのように話す。もとより大事があったのならば、お館様の耳にも入れるべきだ。 佐助は少しだけ躊躇った後、何かを抑えたような声音で、こう言った。 「真田の屋敷が何者かの襲撃を受けました」 その場に居た者達が一様にざわめいた。 幸村は、腹に冷たい刃を差し込まれたような心地だった。 今朝、別れた二人の姿が頭に浮かぶ。 「……怪我人は居ません。ですが、」 佐助の声が躊躇った。 いよいよ心臓が高鳴る。 最も最悪な結果が頭を過ぎる。 やめろ、佐助。言うな、言うな。 「……ですが、奥方様と大助様が、行方知れずです」 目の前が、真っ暗になったような気がした。 佳い夜だった。月は丸く、灯りが無くとも良いくらいの夜だ。 その夜の中を、全力で馬を走らせる。 佐助がすぐ隣を、信じられない速さで走っていた。 「すまねえ旦那、才蔵と俺の二人共を外に出すべきじゃなかった」 「済んだことはもう良い!」 怪我人は居ないとは言ったが、恐らく忍びのなかには被害が出ているだろう。 佐助は、忍びを人の内には数えない。 そう、済んだことだ。佐助を責めても仕方が無い。武田の総大将の膝元だ、油断して主力となる忍びを外へ出したのは佐助ではなく幸村だった。 責があるとすれば、それは全て己にある。 そうやって己を諌めなければ、激情のままに佐助を詰ってしまいそうだった。 屋敷へ着くと、門扉は開け放たれたままだった。 恐らく、幸村よりも先に屋敷へ戻った忍びが開けさせたのだろう。 馬を走らせたまま門を潜り、それを止めずに飛び降りた。 草履を脱ぐことすら煩わしく、土足のまま縁に駆け上がる。夜、既に皆寝ていてもおかしくない時分だというのに、屋敷中には煌々と灯りが灯っていた。 「幸村様!」 驚いたような女中の声も全て無視して、と、そして大助の居る筈の部屋へ向かう。 どうか、嘘であってくれ。忍びの報告が虚偽である筈が無いことを分っていながらも、そう祈らずにはいられなかった。 襖を開け放ったら、「どうしたの幸村、そんなに慌てて」と驚いたようなの姿が見れる。 ばん、と大きな音を立てたお陰で大助が起き出し、不機嫌に泣いて、が幸村を怒る。 どうか、そうであってくれ。 どうか、どうか。 しかし、力任せに開いた襖の奥、 其処には、誰の姿もなかった。 心臓が、耳のすぐ脇で鳴っているかのようだ。 ふらふらと、崩れそうな膝を叱咤して部屋の中央、乱れた褥へと歩み寄る。 その脇へ着いて、とうとう膝が崩れた。 子育ては乳母へ任せれば良い。そう言う女中達の言葉を取り下げて、「わたしの世界では子供は自分で育てるものなの!」と言い切ったは、片時も離さず大助を傍に置いていた。 大助ととが眠っている筈のその場所にも、なんの痕跡も残っていない。 する、と滑らかな褥に手をつく。 冷え切った布には、温もりすら残っていなかった。 「旦那」 後ろから、佐助の声がした。 振り返る気力もなければ、返事をすることも出来ない。 全てが夢であればいい。 そう、軍議の後の酒宴で酔っ払って見た、悪夢であればいい。 起きればまた朝が来て、軍議を終えて屋敷へ戻れば、あの二人が出迎えてくれるのだ。 きゅう、と握り締める褥が音を立てた。 「…襲撃してきた忍びの一人を捕らえた」 佐助の声が耳に入る。 腹を抉られ胸を開かれ、頭の中を掻き回されたような気分だった。 吐き気すらする。 どうして此処に、あの二人が居ない。 「……吐かせろ」 己の声が、まるで己の声でないようだった。 「御意」と一言残して、佐助の気配が消える。 ―いってらっしゃい。 ―大助、父上がお出掛けですよ。ほら、ばいばいしようね。 最後に会った二人の顔が目に浮かぶ。 今朝までは確かに二人とも、幸村の元にあったのだ。 愛する妻も、息子も。 ずるずると、身体が褥に沈んだ。 褥からは、と、そして未だ何処か乳臭い小さな息子の匂いがした。 大助と、の夢を見た。 座る幸村の元へ這ってきた大助が、袴の裾を引きつかんで、ふらふらと立ち上がった日。 この裾を掴みながら立ち上がった大助は、またすぐに尻餅をつくように座り込んだ。 「!!!大助が立ったぞ!!」 部屋から出ていたが戻ってきたが、その時には既に大助は這い回りながら畳を弄ることに没頭してしまっていた。 「大助、先ほどと同じように立ってみろ」と抱き上げ立たせようとするも、小さな息子は足を元気にばたつかせるばかりで、立とうとはしなかった。 それを見たが、「いいわよそんなに無理させなくて」と笑う。 「本当に立ったのだぞ!」 「はいはい」 「信じておらぬな。大助、母上にも見せてやれ」 「黙ってても、その内ちゃんと立つようになるから」 が笑う。茶を持ってきた女中も笑っていた。皆が笑うのにつられてか、大助も心なしか楽しそうだ。 幸せだ。この幸せは永久に続くものと信じていた。きっと誰もが疑わなかったに違いない。 唐突に夢が破られた。 「幸村様、朝餉の用意が整いましてございます」と、気遣わしげな女中の声がする。 ふと辺りを見回して、と大助が居ない現実を突きつけられた。 その夜、幸村はあの二人が消えた部屋で眠りについた。朝目覚めたら、また二人の顔が見られることだけを祈りながら。 だが幸せな夢も、祈りも通じず、幸村はひとりでその部屋に横たわっていた。 呆とする頭が覚めるころには、絶望で胸が真っ暗になった。 「佐助」 呼ぶ声に返事はない。変わりに、聞きなれぬ忍びの声が返事を返した。 「長は今、先の侵入者の元に居ります」 「そうか」 佐助は、昨夜からずっと其処に居るのだろうか。沈んだ頭でそのようなことを思った。 未だ部屋の前で返答を待つ女中に、「朝餉は要らぬ」と一言だけ返す。何も口に入れる気になれなかった。着物も、昨夜のままだ。嫌な汗をかいたが、湯を浴びる気にもならない。 息をすることすら億劫に感じられた。 「…と大助は、見付かったか」 何処ともなく、宙に呼びかける。一瞬の沈黙の後、低い声が「未だ見付かっておりません」と小さく響いた。 片手で顔を覆う。頭が重かった。 それから、昼と夜が、いくつか巡った。日を数えることもしなかった。 と大助はまだ帰ってこない。 何もする気になれず、ともすれば飯さえ食わぬ幸村を案じた女中達が、無理矢理に幸村を生かした。 涙すら出ない。心が乾ききったようだ。 一体いくつめの夜だろうか。もしかしたら、然程日にちは経っていないのやも知れぬ。 あれ以来、姿を見せていなかった佐助が、ようやく幸村の前へ現れた。 「…行方は分かったか」 「あの忍びは、どうやら松永に雇われた忍びみたいだ」 「では、と大助は其処に居るのか」 「いや、…捕えた忍びは、二人の行方は知らないと」 その言葉に、かっと頭に血が上った。 知らない、などと。聞き出せない、の間違いではないのか。 「案内しろ佐助、俺が聞く!!」 荒れ狂う感情のままに声を出す。その時佐助が一瞬怯んだように見えたが、それ程に恐ろしい顔をしていたのかもしれない。 だがそれも一瞬のことで、すぐさま忍びの顔に戻った佐助が、幸村を止めた。 「旦那、無駄だよ」 「佐助が聞きだせぬと言うのならば俺が聞く!」 「違うんだ」 「何が違うというのだ!!」 「頼むから話を聞いてくれ」 「佐助には分からぬのだ!!一番大切なものを抉られることがどのようなものなのか!!」 怒りのままに言葉が雪崩れる。 佐助の表情は変わらない。だがその顔には、悲しみが見て取れた。 この男は忍びだ。大事なものを削り取ることが、削り取られることがどのような苦しみを伴うのかは、きっと幸村よりも佐助のほうが知っているのだろう。 分かっていても、言葉が止められなかった。 胸が痛い。失った胸が痛い。目の前の同胞を傷つけた言葉が痛い。 溢れる何かに、喉が詰まった。 「…旦那、俺たちは忍びだ。尋問に関して、旦那は忍びの足元にも及ばないよ」 「……分かっておる…」 手で顔を覆う。 どうすることも出来ぬ感情の波を必死に抑えながら、唇を噛んだ。 今ここで佐助に当たったところで、何も解決などしないのだ。 「…あの忍び、こう言ったんだよ。"奥方とその息子は、突然光に呑まれて消えた"ってね」 「光?」そう聞き返すと、佐助は静かに頷いた。 一体何の比喩だ。光に呑まれた、とは。 「ここからは俺の推測なんだけど」と佐助が口を開く。 「…二人共、行っちまったんじゃねえのかな」 「何処へ、行くというのだ」 「ちゃんの実家の方」 ぽかん、と口が開いた。 実家とは何処を指すのかと考えて、ふと、そういえば彼女が異界の生まれであったことに思い至った。 そうだ、彼女は元々、違う世界の、人間だったのだ。 「…だが、は帰りたくても帰れぬと、道が無いと言っておったではないか…」 「ああ。でも有り得ないことじゃない。元々、こっちへ来た時だって突然だったんだから」 「し、しかし、その忍びが嘘をついているということも」 「そんな嘘ついて如何するんだよ」 体中の力が抜けて、幸村はまたその場に座り込んだ。 胡坐をかいて、佐助の言った言葉を確かめる。 帰った?元の、世界に?大助を連れて? 「ちゃんの居た世界は平和だったっていうから、恐らく死んでるってことは無いと思うけど」 佐助がそんなことを言った。 だが、幸村にとっては殆ど同じ意味に聞こえる。 繋ぐ道の見えぬ、異界。そこは死後の世界と何処が違うのだろうか。 それは死別に近い。 「……生きて居るのだろうか」 「多分ね」 「…だが、会えぬのか」 「……」 佐助は答えない。それは仕方が無い。がこちらへ来たときに、佐助も、そして幸村も、必死になって彼女が帰れる道を探したのだ。それはとうとう見付からなかったのだが。 それが今になって、何故。 「…この御時世だ、生きてるだけ儲けもんだって思ったほうが良いぜ」 佐助の声が、随分と遠くに聞こえた。 それからまた、数日が経った。 の褥からも、着物からも、だんだんと匂いが薄れ、屋敷から二人の居た痕跡がどんどんと消えてゆく。 全て、夢であったかのように。 かつて父を失ったとき、幸村は泣いた。 けれどそれは、怒りと悔しさからの涙だった。 さらに、あの時は、父を亡くしたと同時に幸村は生涯の主を得た。 寂しくはあっても落ち込み塞ぎこむようなことはしなかった。 だが、今回は違う。 幸村の中の何かに大穴が空いて、そこから全てが流れ出してしまったような気分だ。 毎日この部屋へ来て、二人が居ないことを確認する。 その度に、ひとつ、またひとつと何かが零れ落ちていくようだった。 理不尽に、唐突に、何もかもを奪われる、この戦国の世にあっては珍しいことではない。分かっていた筈だった。それなのに。 「」 なあに、幸村。 名を呼べば、声がしそうな気がする。 日ごと、瞬く間に大きくなってゆく大助を傍に置いて、はきっと縫い取りでもしている。 大助が、よたよたと、時折尻餅をつきながらこちらへ歩いてくる。 着物もすぐに小さくなって、また新しいものを用意しなければならなくなるだろう。 何でも買って与えたがる幸村を、は諌めるに違いない。 ふと、縁側の上に小さな枝が落ちているのが見えた。誰か、女中の着物にでもついてきたのだろうか。 その小枝を取って、外に放り投げる。 大助は、なんでもかんでも口に入れたがる。この枝を飲み込んだりしたら大変だ。 そう、無意識の内に行動している己に気付いて、頭の奥が白くなった。 はあ、と吐息が震える。 胸の内からせり上がってきたものが、喉を潰した。 「何処へ行ったのだ…」 数日前までは確かに在った、己の家族。 と、大助と、死ぬまで一緒に居れると思っていた。 胸が痛く、堪らなくなって、幸村は衿を強く握り締めた。 小さな柔らかい手を思い出す。ふくふくとした、温かい手。 あんなにも弱く、そして愛おしいものがあることを、初めて知ったのだ。 それが傍にあると思うだけで、誰よりも強くなれる、誰にも負けぬと思えるものがあることを、初めて知ったのだ。 「戻って来い…、戻って来い…!!」 最後の言葉は嗚咽に消えた。 視界が歪んで、ぼた、と着物に染みをつくる。 愛しいものの名を呼ぶが、答える者は居なかった。 ![]() (090627) |