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と大助が消えてしまってから、半月程が経った。 誰もが皆、ふたりが消えた生活に慣れ始めてきている。きっと、そうせねばならぬという思いもあるのだろう。 けれど幸村はまだひとり、妄執の夜に取り憑かれていた。 夜になり、目を閉じるとあのふたりの姿が見える。静寂が訪れると、声が聞こえる。 両手から零れ落ちた大切な者たちの影がそこかしこにちらついて、ただひたすらに苦しかった。 「旦那。気持ちは分かるけど、それじゃ駄目だってことは解ってんだろ」 いつまで経っても立ち直らぬ、立ち直ろうという努力すらせぬ己を見かねた佐助が叱咤しても、それすら心に届かなかった。わかっておる、そう口で返事をしながらも、心に空いた大穴がひゅうひゅうと音を立てて幸村を苛む。 このまま、さらに昼と夜を繰り返せば、いつかは忘れられるのだろうか。 幸せな日々も、ふたりのことも忘れて、また何処かの姫と引き合わされて其れを娶り、新たな家族を得て暮らすことになるのだろうか。 いずれはそうなるのやもしれぬ。 だが今は、そのような未来など考えることも苦痛だった。 いっそのこと、あの二人の死骸があれば良かったのかも知れぬ。死んでいると見せ付けられれば、諦めることも出来たかも知れぬ。 だが、行方も生死も解らぬ今は、明日にはも大助も戻って来るかも知れぬ。もしかしたらやはり松永の居城に囚われているのやも知れぬ。そのようなことばかりが頭に浮かぶ。 いつまでも、現実を受け入れようとしない己の為にと、と大助の部屋は、早々に片付けられてしまった。やめろ、と叫んで止めようとしたのを、佐助に阻まれた。 おそらくは女中達に、の部屋を片付けろと言ったのはあの忍びだ。佐助は、「は元の世界へ戻った」という己の説に確信を抱いている。 「いつか帰ってくる」という希望と共に部屋をそのままにしておけば、主である幸村がいつまで経っても立ち直らぬ、そう思ったからかも知れない。 何も無くなってしまった部屋で、それでも幸村はその場から動けずに居た。 ふと、今まで己が戦場で斬った者達のことを考える。 あの者達は覚悟をもって戦場で散っていった。だがしかし、家にはきっと、あの者等の帰りを待つ者が居たのだろう。 残された者達は、一体どのようにしてその悲しみを癒すのだろうか。 その術を知りたい。 そう思った。 それからさらに二日が経った。 朝、まだ日も出ておらぬ頃だったと思う。 突然布団を取り払われ、入り込んだ朝の空気に肌が粟立った。 ゆるりと目を開けると、酷く高揚した様子の忍びが見えた。 「旦那、起きろ!!」 「…なんだ、佐助か」 「ぐずぐずしてないで、起きて支度しな。いや支度も要らねえ、早く来てくれ」 「一体何だ、騒々しい…」 頭が重い。昨夜はなかなか寝付けなかった、その所為だろう。 軋む身体を気だるく起こすと、佐助が満面の笑顔を見せた。 この忍びの、このような笑顔を見たのはいつ以来だろうか。呆とした頭でそんなことを考える。 「落ち着いて聞いてくれよ、旦那」 やけに勿体ぶった様子で、佐助が口を開いた。 そうして、其れを聞いた瞬間、幸村の目の前に広がる世界が一変した。 「幸村様、そちらではなくあちらです!」 渡りの向こうから現れた女中が、紅潮した頬を隠そうともせずにそう言った。 裸足がよく磨かれた板を強く踏んで、音を立てる。 返事もせずに、幸村は指し示された方向へ急いだ。 と大助が帰ってきた。 佐助がそう言った瞬間、布団から跳ね起きて、場所も聞かずに部屋の外へ飛び出してしまった。 胸が高揚し、今にも破けてしまいそうだ。 期待と、そして不安が渦を巻いて、幸村の頭はおかしくなってしまいそうだった。 本当に、と大助が帰ってきたのだろうか。 未だそのことが信じられず、もしも違ったら、という不安が燻る。 形振り構わずに屋敷内を走って、ざわめく人だかりを見つけたときに、ようやく足が止まった。 どくんどくんと、心臓が鳴る音がする。 人だかりの中、赤子を抱いた、奇妙な衣装の女の後姿が見えた。 「…、か?」 呟くような声に気付いてか、群がっていた者達がさあと横に避ける。 女が、ゆっくりと振り向く。 腕を惜しげもなく露出した、薄い布の着物を着た女と、その腕に抱かれた、これまた奇天烈な衣装のその子供。 「幸村!」 振り向いたその人は、間違いなく、幸村が愛してやまぬ者の姿をしていた。 一体どれ程、祈っただろうか。 どれだけ、涙しただろうか。 息が上手く出来ない。足が一歩、また一歩と、知らぬ間に動いた。 幸村が歩くよりも早く、消えたと思っていた夢が近寄ってくる。 また夢を見ているのだろうか。また目が覚めて、絶望する羽目になるのだろうか。 知らぬうちに膝が震えて、そこに座り込んでしまいそうだった。 「ただいま!」 そう言って笑った顔が眩しくて、視界が歪んでよく見えなかった。 飛び込んできたと大助は、腕を回しても消えなかった。 確かに質量を持って、体温を伝えてくる。 ただ伸ばした腕の中へ入り込んできた二つの温かさが愛おしくて、喉が潰れた。 苦しい、と笑いながらに窘められても、緩めることなど出来ない。 二度と、この手から離すものかと思いながら、ひたすらにその温かさに縋りついた。 「実家に戻っちゃったの」 佐助の言った通りのことを、は話した。 あの襲撃を受けた晩、は大助を抱いて、振りかぶられた刀に目を瞑り、そうして次に目を開けた時には既に元居た世界に戻ってしまっていたという。 切欠も何もかも不明なままだ。 どうして帰れたのか解らない、どうしてまたこちらに来れたのかもよく解らない。でも、ついでに親に孫の顔見せれたから結果的には良かったのかな。 はそう言って笑った。 「…何にも言わないでまたこっちに来ちゃったから、きっとすごく心配してるだろうな」 少しだけ寂しそうな顔に、胸が痛む。それでも、己の我儘な口はこう言ってしまった。 「、もう戻るな。傍に居てくれ」 なんと手前勝手な言い分だ。そう思いながらも止められない。 またあんな思いをするのは、金輪際御免だった。 は笑って、「うん」とひとつ頷いた。 その日は、一日中大わらわだった。 の部屋を急ぎ戻して(とは言っても、幸村達が着いたころには既に準備が整っていたが)、お館様に文を書き、ささやかな宴を催して、そうして夜にはと同じ部屋に戻った。 「…そんなに心配しなくても、もう居なくなったりしないよ…」 褥を二つずるずる引き摺りくっつけて、大助を間に置いて川の字に横になる。 それでもまだ足りず褥と褥の間に入り込んで、それでももっと近くに寄りたいと思い…結局、と大助の寝ている褥に侵入した。 幸村寝返りとかで大助を潰しそうで嫌だ。はそう言ってきたが、幸村も譲らなかった。 先ほどまで目をぱちぱちさせていた大助も、今は静かな寝息を立てている。 隣で話をしていても、起きる気配すらない。 こういう所が幸村に似ている、とに言われ、自分ならば横で話されればすぐに起きると言い返した。 大助の柔らかい頬をつついて頭を撫でているうちに、じわりじわりと、二人を失った半月が蘇り、涙が滲んだ。 「…幸村、泣いてるの?」 「…泣いてなどおらぬ」 「うそ、泣いてるでしょ」 「泣いておらぬ!」 「しーっ、起きる」 はっとして大助を見たが、顔を幸村の方へ向けている小さな目は瞑ったままだった。 「…あたしはね、泣いたよ」 「?」 「幸村が居なくて、泣いた」 の白い手が暗闇を伸びて、我が子を撫でる。 そうしてそのまま手がこちらへ伸ばされ、幸村も吸い寄せられるようにその手を掴んだ。 「…某も泣いた」 「ほら、やっぱり」 「そなたらを失ったかと思うたのだ」 身体を起こして、その手に口付ける。が照れくさそうに笑う気配がした。 それからまた二、三、言葉を交わしているうちに、眠気がやってきたのだろう、の目蓋がとろとろと落ちて、すう、と寝息が聞こえてくる。 疲れていたのだろう、仕方あるまい。 と大助と、二人分の寝息が部屋に木霊する。 昨日までは絶望に満ちていたこの部屋が、今はこの世の極楽のように感じられた。 手を伸ばすと、掌に温かく柔らかいいのちが伝わる。 眠ってしまえばまた失うような気がして、目を閉じることが出来なかった。 枕に頭を預けながら、ふたりの顔を見つける。 この者達は、光だ。 幸村にとって、太陽であり、月であり、水であり、空気であり、そうして全てだ。 お館様のために死にたい、そう思っていた己が今ではこの二人の為に生きたいと思う。 それが裏切りだとは思わない。 天下も平穏も、今ではお館様の願いではなく己自身の願いになった。 戦は己が武勇や名誉のためではなく、このふたつの光を守るためのものになった。 「、大助、そなたらこそ、俺の…」 指先で、愛おしくて堪らぬふたりの存在を確認する。 目から溢れた水が、頬を伝って耳を冷たく濡らした。 このふたつの光を守るためならば何でもしよう。修羅にも鬼にも仏にでもなってみせよう。 もはや誰にも、たとえ異界にすら渡してやるものか。 握り締めた拳が、きつく、ぎゅうと音を立てた。 (090705) |