ヴーン、とクーラーの鳴る音がする。
冷えた部屋のなか、ソファに身体を投げ出して面白くも無いテレビをぼーっと眺めた。
大きな画面の中から、何が楽しいのか、大勢の観客の笑う声が聞こえてくる。
には全然笑えない。つまらない。
大好きなテレビを見ても、好きな漫画を読んでも、友達と遊びに出ても、つまらない。
何をしていても、頭に浮かんでくるのはたったひとりだ。

真田、幸村。
出会いなんて覚えていない、子供のときからずっと一緒で、これからもずっと変わらず一緒なんだと思っていた。
けれど先日、その幸村に「もう来るな」と言われてしまった。
理由は、うっすらと分かっている。
つまり幸村がを、幼馴染としてじゃなく女として見始めた、ということだと思う。

今でも、あの晩の事を生々しく思い出すことができる。
くすぐったさに目を開くと、誰かの手が身体を這っていた。それが幸村だとわかって凄く動揺した。
「こら!なにすんだこの変態!」とかなんとか言って一発頭を叩いてやって、うっかり盛っちゃった幸村を茶化して笑い話にすることだって、出来なくはなかった筈だ。
だけど、はあの手を止めなかった。
何故かは分からない。けれど、あの大きな手に撫でられるのが気持ちよくて、そのままにしてしまったのだ。


(一発殴ってやればよかった)


自分の手を、あの日の幸村みたいにシャツの中に入れる。クーラーに当たりすぎた肌は冷たくてひんやりしていた。
目を閉じて暗闇の中に思いを沈めると、まるで今し方のことのように思い出すことができる。
密やかな衣擦れの音、かちかちと鳴る時計、暑い部屋、幸村の、何かを抑えるような息遣い。
腹を触って、脇腹を撫で上げて、それで…


(ばっからしい)


冷たい自分の身体から手を離して、ソファの上に投げ出す。

幸村のことは、嫌いじゃない。むしろ好きだ。大好きだ。
どれだけ長い時間を過ごしても飽きないし、毎日一緒に居ろって言われたって苦痛じゃない。
でもああいう行為をするような対象としてどうかと言われると、よく分からない。
ただ、嫌じゃなかった。

頭のなかがぐちゃぐちゃだ。
どうすればいいのか分からない。全然分からない。
でも、このままは絶対に嫌だ。このまま、幸村とただのご近所さんになってしまうのは。

クッションに顔を埋めて身体を丸めると、テーブルの上に置いておいた携帯が耳障りな音で振動した。
ぱかりと開くとそこには、母親からのメールが一通。
「帰りは0時過ぎると思うから」という文面が、素っ気無く書かれている。


お父さんは出張で居ない。
お母さんも帰ってこない。

今夜、家の中にはひとりだ。





蜉蝣の夏





家に帰ると、アパートの部屋の前に誰かがしゃがみこんでいた。
近付かずとも、それが誰なのか瞬時に分かった。見間違える筈がない。

(何故)

動揺が身体を包んだ。突き放した筈なのに、あのようなことをされた後なのに、何故が此処に居る。
知らぬ内に足が一歩後ろへと下がった。ざり、と靴の裏とコンクリートの擦れる音がする。
それを耳で捕らえてか、しゃがみこみ俯いていた彼女が、弾かれたように顔を上げた。
の黒い目と己の目とがぴたりと合う。


「あ…」


の細い喉から、掠れた声が上がった。こうなればもう、逃げることすら出来ない。
幸村は意を決して、その場所へと歩み寄った。
が立ち上がり、扉の前から退く。


「何故此処に居る。もう遅い、帰れ」


そう短く言い放って、隣のの顔を見ずに扉の鍵を開ける。がちん、と錠の外れる音がした。
彼女の顔を見ぬ内に家の中へ逃げ込もうとした腕に、冷たく柔らかい手が掛かった。
の、手だ。
力を入れられているわけではない。ただ軽く手を置かれているだけだというのに、それだけで俺の身体はぴくりとも動かなくなった。

つう、と背中に冷たい汗が流れる感触がした。


「あのね、幸村」
「…なんだ」
「中に、入れて」


ぎくりと腕が強張った。
密やかに、囁くように言われた言葉の意味を一瞬考えてしまった己は、この世で一番の阿呆だ。
部屋の中へ入れてくれろと言ったのに、一体何を考えているのだ。
こんな普通の言動さえ深読みして己の良い様に解釈しようとする、緩みきったこの頭を殴りたい。


「駄目だ」
「どうして」
「分かっておろう」


頼むからもう退いてくれ。心の中でそう必死に訴えた。
だが一方で、邪な期待を抱いている己も居た。
ここでが諦めて帰れば、何事もなく全て終わる。だがこのまま、彼女が部屋へ入るようなことがあればその時は…


「分からない」
「嘘を申すな」
「嘘じゃ、」
「これ以上苦しめてくれるなと言っておるのだ!」


思わず、声が荒く大きくなった。
は残酷だ。
俺は彼女が好きだ。幼馴染としての好きではなく、女子として、を見ている。
いくら鈍感なとて、先の一件で既に承知の筈。
それを知りながら今までと同じように接しろと言うのか。

己の腕を掴む手に力が入った。
小さな手が、少しだけ震えている。
そこで初めて、幸村は彼女の方を向いた。は俯いていて、その表情は見えなかった。


「幸村こそ、あたしを苦しめるのはやめてよ」
「…」
「一緒に居たいんだもん…!」


搾り出すようなの声に、幸村の中で何かが音を立てて切れた。

鍵を開けた扉を、ゆっくりと開く。
明かりの灯らぬ部屋の中は、ただひたすらの闇だった。
其の闇の中を示して、を見る。
彼女は、少しだけ怯えたような表情でこちらを見上げていた。



「入りたいのならば、入れば良い」
「ゆき、」
「たが、その後は知らぬぞ」



中へ入れば戻れぬぞ。そう、最後の忠告を放った。

は一度だけこちらを見返して、それから意を決したように、幸村よりも先に闇の中に飛び込んだ。
それに続いて、同じくその闇の中へ身体を滑り込ませる。
後ろ手に閉めた扉が、がちゃん、と金属質な音を立てた。












幸村の背後でゆっくりと閉まった扉から、鍵のかかった音がした。
月明かりさえも遮られた家の中は、暗くて何も見えない。
感覚だけを頼りにサンダルを脱いで、狭い廊下に上がる。ぺた、と素足の裏に感じる床はどこか生温い。

来てしまった、と思った。

幸村が「後は知らぬぞ」と言ったその言葉の意味が、分からない程子供じゃない。
だからといって素直に考えて退ける程、は大人でもなかった。
入らぬままにこの扉が閉まったら、もう幸村と元の関係には戻れない、と思ったのだ。
けれどこうして暗闇の中で考えると、中に入った場合でも結局は同じことだった。
どちらにしろ、と幸村はもう後には戻れない。


「…幸村?」


扉を閉めたまま、幸村はそのまま動かない。
影になったその表情を伺い知ることも出来ず、ただ立ち尽くす。
音の無い時間が流れた。


「…俺は知らぬと申したぞ」


幸村の、呻くような声がした。
よく聞き取れず、え?と聞き返そうと口を開いたが、喉が貼りついたように乾いて声にならなかった。
乱暴に履物を脱いだ幸村は、足音も荒くこちらに近付く。
そのままの腕を痛いくらいの力で掴んで、中へと誘った。

「幸村、痛い!」

そう声を上げても、幸村の歩みは止まらない。
半ば引き摺られるように部屋の中へ入れられて、それどころかそのまま、ベッドの上に引き倒された。
衝撃で、身体がぼんっと跳ねる。痛みはないが、驚きに声が出なかった。


「ゆ、」
「最後だ、。今ならば、逃がしても良いぞ」


ぎ、と耳障りな音を立ててベッドに方膝をかけた幸村が、低く言った。
その目が、暗闇でも分かるくらいぎらりと光っているのを見て、恐怖に胸が苦しくなる。
逃がしてもいい、だなんて言いながら、この圧力はなんだろう。
今此処で、身体を起こして逃げ出そうものならば、髪を引き掴んででも連れ戻す。そう言われているかのような圧迫感があった。

けれど次の瞬間にはその圧力が霧散し、幸村がどこか悔しそうに顔を歪めた。
がらりと変化する幸村の表情に戸惑いながら見上げると、彼は喉の奥から、小さく掠れて消え入りそうな声を出した。

「何故逃げぬ」

何故、と言われても分からない。怖いからだろうか。違う。それが全部じゃない。上手い言葉が見付からなくて、もただ一言「幸村と一緒がいいから」と答えた。


軋む音をさせながら、幸村がベッドの上に膝で上がった。
幸村に投げ込まれた体勢のまま動けないの正面から、きし、きし、と音を立てながら近付く。
やがて、幸村の両手両脚がまるで檻のように、を捕えた。

顔の横に突かれた幸村の手が握り締められ、シーツがきゅうと音を立てる。
もう片方の手が、の頬を滑った。


「俺はが好きだ」
「…うん」
「幼き頃よりの友としてではないぞ」
「わかってる、よ」
「…故にこれから、あの夜に成し得なかったことを果たそうと思う」
「……やだって言ったら?」


やだ、なんて言ってもどうしようも無いことは分かっている。
それでも、最後の抵抗をした。
その言葉を聞いても、幸村は全く動じなかった。表情を変えないまま、彼の唇が動く。



「今更聞かぬ」



短く、吐き捨てるように言った幸村が、ぐいとこちらに近付いた。











咄嗟に顔を逸らしたの、筋が浮き出た首に吸い付くと微かな塩気を感じた。驚いたが裏返った声で呻いたのを感じたが、ぼうとする頭ではそれに構う余裕も無い。強く吸ったの首は、唾で濡れて薄紅に鬱血した。
己の手が、まるで別の生き物のように動くのを感じた。薄い布の間に滑り込んだ掌が、の肌がどれ程滑らかで心地好いのかを伝えてくる。吐き出した息は存外に熱く湿っていた。

時間などいくらでもあるというのに、如何してだかその時の俺は酷く焦っていた。
まるで、今、この瞬間を無駄にしては二度とに触れられぬかのように、焦燥に駆られた手が乱暴にの衣服を剥がしにかかる。
痛、という小さな抗議の声も黙殺して、下着以外の何もかもを引き千切らんばかりの勢いで剥いだ。


「やっ」


最後の砦とも言うべき、面積の少ないその布を守ろうとしたのか、が枕に手を伸ばしそれを盾にして俺の視線から自らの身体を隠す。
抵抗にもならない行動に、薄く笑いが込み上げた。その時の俺の顔は恐らく、信じられない程酷薄であっただろう。

「往生際が悪い」

言って彼女が引き掴む枕に手をかけた。は必死に引っ張ったつもりなのだろうが、そんなものは障害にさえもならず、柔らかい盾は放り投げられ壁にぶつかって間抜けな音を立てた。
身を守るものを失ったは、今度は身体をうつ伏せに反転させて抵抗した。

今更抵抗したとてもう遅い、嫌ならば最初から此処へ来なければ良かったのだ。

苛立ちにも似た、どす黒い感情が腹の内をうねった。
うつ伏せられたその身体を反転させようとして、肉の薄いの肩を掴む。
その時だ。


「幸村、怖い」


うつ伏せてシーツに沈んだ頭の下から、震えた声がした。
怖いよ、ともう一度言われて、熱に茹だった頭がすうっと冷える。
強く掴んだ肩から己の手を外すと、彼女の方には己が掴んだ痕が赤く残っていた。
もう一度、冷静を取り戻した目でを見下ろす。
幸村よりも随分と小さく細い身体が、震えていた。

途端、先程までの己の所業に対する後悔が湧き上がった。


「あ…、すまぬ…」
「…」
を怖がらせるつもりは、」


耳を澄ませてみると、どうやらは泣いているらしかった。
先程までは、が泣いても喚いても構わぬ、押さえつけてでも、と思っていた筈だというのに、いざ彼女が怯えて泣いている様子を見るとそんな気持ちも霧散した。
だがそれでも、想いを果たしたいという気持ちだけはまだ根強く残り、曝け出された肌に喉が鳴る。

とベッドとの間に腕を入れる。
恐る恐る背後から抱きしめると、彼女の身体が一瞬強張った。
髪の間から覗く項に顔を埋めて、出来る限り優しく聞こえるように「」とその名を呼んだ。


、好きだ」


何を言って良いやら分からず、ただそれだけを言う。
が愛おしくて堪らない。共に居るだけでは足りない。繋がりたい。だがそれで、彼女に嫌われてしまうのは本末転倒だ。けれど、我慢するのはもう辛い。
進むことも退くことも出来ず、熱を逃がすために吐いた息は震えていた。

「幸村…」

腕の中で、もぞもぞとが動く。少しだけ抱きしめる力を緩めると、が腕の中で体を反転させ、こちらを向いた。


「なんであんたが泣きそうなの」
「…すまぬ」
「泣きたいのはこっちだよ」
「すまぬ、だが、好きなのだ」
「うん…わ、わたしも、多分、好きなんだと思う」


今のところ俺が手を出さぬようだと察したのか、が手を伸ばして髪を撫でてきた。その顔にはまだ、少しの恐怖が残っている。
好きなんだと思う。随分と曖昧な言い方だ。俺はが好きだと、叫んでもいいくらい己の心に自信を持っているのに。
する、との曝された肌が己に触れた。ぞく、と忘れかけた慾が戻ってくる。


「でも、で、出来ればもう少しだけ待って欲しいの」
「…俺はもう、十分に待ったぞ」
「だから、もし幸村がどうしてもっていうなら諦めるけど、出来れば、待って」


お願いします、としおらしい顔で言う。どうしても、という言葉が喉まで競り上がってきたが、どうにかそれを飲み込んだ。


「幸村と一緒に居たいの。でもまだ怖いの。お願いだから、もうちょっと待って」


ぎゅう、と俺の頭を抱きしめながらが囁く。
いいにおいのする肌を目の前にして、お預けを食らうのか、と下半身が駄々を捏ねた。
それを宥めながら、身体を離して、に顔を近づける。
は少しだけ怯んだ様子を見せたが、逃げ出そうとはしなかった。


「…俺は、が好きだ」
「うん、な、何回も聞いたよ」
「そなたを好いておるから、待つことにする」
「…え、いいの?」


己で聞いておいて、は驚いたような顔をした。俺が強行すると思っておったのだろうか。


「なんだ、それともやはり今抱かれたいのか」
「や、あの、待ってくださいすみません…」
「長いことは持たぬぞ。それから…」


弱りきった顔をしているの顎を掴んで、その唇を一度だけ塞ぐ。
大きな黒い目がぱちりと瞬いて、それからの顔が赤に染まった。


「待つ代わりに、此れだけは許せ」


囁き声が消えるか消えないかのうちに、もう一度、の唇を食った。
味などほとんどしないはずなのに、の唇は、舌は随分と甘ったるいような気がした。








(090821)