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金木犀の香りがする。 まだすこし暑い夜、自分の他に誰も歩いていない暗い道。もう蝉も鳴き終わり死んでしまった此所はいやに静かで、聞こえるのは自分の足音ばかりだ。 かつ、かつ、とサンダルが鳴る。街灯がぱちんと消えて、またついた。 道の脇には開いたばかりの金木犀が、黄色い花を夜に沈ませている。むせるようなこの甘い匂いが、はとても好きだった。 道路にはみ出すそれを、人が見ていないのを良い事に、いくつか毟ってポケットに入れる。 向かう先は、の幼馴染みが住んでいるアパートだ。彼の両親は2年前に何処かへ引っ越し、まだ高校を卒業していなかった彼だけが此所に残った。 彼の名前は、真田幸村という。 幼い頃から家族ぐるみで親交のあったの母親は、卒業もしないうちから一人暮らしをすることになった幸村の世話を焼きたがり、家が近いこともあって、よく晩御飯の差し入れにとを遣いに出している。 だけど今日、の手のなかには美味しい晩御飯は無い。 あるのは、千円ばかり入った財布と携帯と家の鍵だけが入った小さな鞄と、この身ひとつだけだ。 ご飯を渡しに行く時だけじゃなく、今日みたいに、両親ともに仕事やらで帰って来ない夜、は幸村の家に行く。 最初に幸村の家に理由もなく行ったのは、丁度去年の冬のことだった。 両親が二人揃って出張だかなんだかで、誰も居ない音も無いひとりぼっちの家に耐え切れなくなって、幸村の家に逃げ込んだのだ。 ダウンジャケットを着て、玄関先で鼻を赤くしていたを見て、幸村が酷く驚いていたのを今でも覚えている。「寂しくて来たの」と言ったを責めることもなく、「そうか」とだけ言って幸村はを部屋に入れてくれた。 アパートとの前で、インターホンを鳴らす。 一回、二回。 三回目のベルで、中から鍵が開いた。 「どうもー」 「か」 「はいさんですよ」 暑いぞ。そう言って、理由も聞かず中へ誘う幸村は、タンクトップにスウェットというとてもラフな格好だった。それに負けず劣らずラフな格好をしているに、幸村が眉を潜めて「そなた、その格好で来たのか」と聞く。 「そうだよ、暑いじゃん」 「…」 「うわ、幸村の部屋ほんとに暑いし」 他人の家に押しかけておいて好き勝手な文句を言いながらベッドに手足を投げ出したの服装は、薄手のTシャツにショートパンツという、まごうことなき部屋着だ。 半分呆れたような「風呂は」という問い掛けに対して、「もう入った」と答える。でも正直、近いとはいえ此所に歩いてくるまでにまた汗をかいてしまったから、もう一回入ってもいい気分だ。 「幸村はもうはいった?」 「まだだ」 「じゃ、どーぞお構いなく」 「元よりそのつもりだ」 幸村のベッドを占領して寝転がるあたしを団扇で扇ぎながら、「腹を出しておると風邪をひくぞ」と幸村が溜息をつく。ひかないもーん、だなんていいながら、占領した彼のベッドの上でころりと体勢を入れ替えると、ふと幸村が何かに気付いたように鼻を鳴らした。 「なんの匂いだ?」 「え?汗くさい?」 「いや、違う。嗅いだことのある匂いだ。…なんだったか」 「…あたしから?」 自分で自分の匂いを嗅いでみるも、やはりよくわからない。 幸村がこちらに顔を寄せながら「甘い匂いがする」と言って、ようやくその正体に気が付いた。 「金木犀だよ」 「キンモクセイ?」 「うちと幸村の家の間でさ、咲いてるやつ。黄色い花つけた木」 ようやく合点がいったという様子で幸村が手を打った。 ショートパンツのポケットから、来る途中で毟った金木犀を取り出す。 「いい匂いでしょ」 「いい匂いだな」 「これがあたしに移ったんだと思うよ」 幸村は、答えの出たその香りに興味を失ったらしく、ふうん、と気の無い返事を返してきた。 幸村の部屋は、暑い。 ぱ、と目を覚ますと、真っ暗闇だった。 ぱちぱちと二、三度瞬きをして、辺りを見回す。 其処が自分の部屋ではなく、幸村の部屋だということに気付いて、いつ眠ってしまったのだろうと驚いた。 目を凝らして時計を見ると、もう夜中の2時を回っている。 幸村が「風呂に入る」といって風呂場に消えたのを見送ったことは覚えているが、その後の記憶が無い。 自分の身体は汗でしっとり濡れていて、熱くて喉が渇いていた。 だるい身体を起こすと、が占領しているベッドの横、床の上でベットを背凭れにし眠っている幸村を見つけた。 いつもが此処に来ると、幸村はちゃんと来客用の良い布団を床に敷いて、そちらにを寝せる。 がベッドを占領しているとはいえ、寝ようと思えばを起こすなり来客用の布団を出して自分がそこに寝るなり色々と方法はあっただろうに、彼は黙って床の上で眠っていた。 「幸村」 小さな声で彼の名を呼び、揺すり起こす。 まるで眠ってなどいなかったかのように、あっさり返事が返ってきた。 否、もしかしたら本当に起きていたのかもしれない。 「…なんだ」 「ごめん、寝ちゃったんだねあたし」 「そうだな」 「布団出すよ。幸村はこっちで寝て」 「良い」 ぞんざいな返事をする幸村に、良くないよ、と返した。 流石のも、家主を床で寝せて自分はふかふかのベッドで眠るだなんてことは出来ない。 起きる、と言ってベッドから出ようとしたを、幸村が押し返す。 良いからもう寝ろ。いやだ。良いと言っておろう。やだ、あたし布団出す。いらぬ。じゃああたしも床で寝る! そんな問答を繰り返した後、もう面倒くさくなってしまって、 「じゃあさ、こっちおいでよ」 と自分の隣をぽんぽんと叩いた。 「…女子と同衾など出来るか」 「おなごだって思わなきゃいいじゃん」 「馬鹿を申すな」 「はい、どーぞー」 出来うる限り壁際に寄って、一人が十分に横になれるスペースを空ける。 幸村はそれでも、かなり渋っているようだった。 「じゃあやっぱあたしも床で寝る」 「それは駄目だ」 「なんでよ」 「女子を床で寝せられるか」 「おなごおなごって…そんなの気にしなきゃいいじゃん」 半分呆れて、は無理矢理に幸村をベッドの上に引き摺り上げた。 細身ながらもがっしりとした体格の幸村は流石に重く大分苦労したが、の猛攻に折れた幸村は結局、渋々といった体でベッドの上へ横になった。 「あまり近付くな」 「近付いてないじゃん。意識しちゃって幸村ってば破廉恥ー」 「はっ…!」 「うそうそ。叫ばないでね」 「む…」 幸村の目の上を覆い隠して、はいおやすみー、と声をかける。 掌に感じる、幸村の睫がくすぐったい。暑い、狭い、なんて文句を言いながらまだベッドから出ようとする幸村を宥めながら目を閉じる。 幸村の部屋は暑い。 こんなに暑いんじゃ、きっと眠れない。 そんなことを思いながら、でも眠ったのはきっとの方が先だっただろう。 最後に鼻腔をくすぐったのは、幸村の使ったシャンプーの匂いだろうか、それともあの金木犀の残り香だろか。 金木犀の夜 部屋が異様に暑いのは気のせいなのか。 存外に早く、すう、という寝息が聞こえてきた。 隣に感じるその息遣いに神経を研ぎ澄ませながら、溜息をついた。 時折、ううん、と鼻から抜けるような声を出すを、いっそ起こしてしまいたくなる。 (何故このようなことに) いつものように突然にがやってきたのは、もう11時を回ったころだった。 「どうもー」と無邪気にやってきた彼女は、最近幸村が抱き始めた彼女への異質な感情に気付いてはいないだろう。 目を瞑っても眠気は訪れず、聞こえる衣擦れの音に全神経が逆立って、其処に横になっていることすらも苦痛だ。 幸村は身体を起こして、隣で四肢を投げ出している女子を見つめた。 無造作に投げ出された四肢は、昔と違って随分と長く、そして白くなった。少しだけ捲れ上がったシャツの下に、白い腹が見えている。黒い髪が褥と彼女の顔に散って、暗闇が白い顔に濃い影を落としていた。 (甘い匂いがする) が取ってきたという、あの金木犀の香りがする。 おそらくは、テーブルの上に置いた花から漂ってくるのであろうが、今の己には、何故かこの香りがの身体から立ち上っているかのように思われた。 を起こさぬように顔を近づけ、すう、とその香りを吸う。 やはり、彼女の身体からは甘い花の香りがした。 じい、と見つめると、その視線に気が付いたのか、彼女が急に寝返りをうち、こちらに背を向けた。 シャツの上から無意識に、視線だけでの身体の線を確かめて、ふと、あることに気が付いた。 それを確かめるために、指先で少しだけ背に触れてみる。 やはり、無かった。 (…つ、つけておらぬのか?) あるはずの、下着の線が無い。 いくら家が近いとはいえ、これはあまりのもやりすぎだ。頓着しないにも程がある。 朝起きたらきつくきつく叱っておこう、と心に決めながら、視線は邪魔な線がない彼女の背に向けられていた。 付けておらぬと知れば、気になって仕方が無くなるのは幸村がに対して疚しい想いを抱いているからなのか、それとも男とは総じてそういうものであるのか、幸村には判断がつかなかった。 ただ、触れてみたい、という欲求ばかりが高まる。 (大体、歳若い男女がこうも気軽に同衾するなど) 己とて男だ。 はそれを分かっていない。 幼馴染だから、といって無防備な姿を見せるに、幸村がいったいどんな思いを抱いているのか、きっと彼女は知りもしないのだろう。 知っていたら、そもそもこの家に来たりはしない。 が来なくなると思うから、幸村は決してこの想いをに伝えたりはしない。 己の手が、彼女の身体に届く寸前まで伸ばされて、そして止まる。 と幸村の距離は、これより縮まらない。 とても近くて、酷く遠い距離だ。 これを越えれば、きっとは傷ついて二度とこの部屋の扉を叩くことは無いだろう。 (このような甘い香りをさせておるから悪いのだ) 触れたい、触れたい。 この甘い匂いがいったいどこから来るのか知りたい。 邪魔な拘束具の無い身体がどんなに柔らかいのか確かめたい。 彼女の手入れの行き届いた唇はどんな味がするのか知りたい。 部屋が暑い。 咽るような甘い匂いが、酷く煩わしかった。 (090422) |