女はいつだって待つことしかできないのだ。
同じ手足が付いていても、女の足は家に縛られ、女の手は子に縛られ、男の手足のように奔放には動かない。
いつもお傍に居ります、離れていても心はひとつだなんて、口では綺麗に繕いながら、心の中は大嵐。
両の足で土を踏みしめ、武器を両手に駆ける男達には分からないのだ。
決してこの身ひとつのものにはならぬ男を恋うて、涙を流し月を見上げる女の心など。


「浮かぬ顔をしておるな」


明日は出立の日だ。
戦の前の、妙に張り詰めた空気が漂う夜。
夫を戦に送り出すのは初めてのことではない。だが、到底慣れることは出来なかった。
明日、が生涯をかけて仕えると誓った夫、幸村様は地獄のような戦場に向けて、出立する。

いつもの紅蓮ではなく、闇に溶ける夜色の羽織を着た幸村様が、困ったように笑う。
良く出来た妻ならば、何の心配もないという顔をしてにこやかに居られるのだろう。
だが、そうするにはは、妻としても女としても、あまりに未熟であった。
蝋燭の灯に揺れる杯に、とろりとした酒を注ぎいれながらただ顔を伏せる。
彼の顔を、見ることが出来ない。


「また暫く会えぬというのに、そのような顔をするな」
「…」
「最後に見た妻の顔がそれでは、死んでも死にきれんな」


冗談めかした言葉に、殴られたような衝撃が走った。
弾かれるように顔を上げる。目を合わせた幸村様は、こちらを見て酷く驚いたような表情をしていた。
銚子を持つ手が震え、唇が戦慄く。
胸の中に怒りが込み上げ、せり上がる熱さが喉を潰して焼けるようだった。


「冗談でもおやめください!」
、」
「さ、さ、最後などと、たとえ戯れにでも口にしないで下さい!」
「…すまぬ」


目元が熱くなり、それ以上の言葉は出てこなかった。悔しさに眩暈がしそうだ。
胸の内を渦巻く感情、怒り、それが出口を求めて体中を駆け巡る。
女はいつでも残される。男が夢へ向かって走っていくのをただ後ろから見つめ、追いかけることも出来ずに残されるのだ。
帰ってくるかもしれない、でも帰ってこないかもしれない。そんな思いに押し潰されそうになりながら、指折り数えて過ごす夜を知らない男達は、振り返りもせずに走ってゆく。
一緒に走りたくても、枷のように鎖のように絡みつく、自分は女であるという事実。
己が身が男でないことを、脆弱なる女の身体であることをどれ程恨んだことか。

目の前がじんわりと滲んで、瞬きが出来なくなる。今、ちらりとでも睫を動かせば、ぼろりと零れてしまいそうだ。

重苦しい沈黙が流れる。ああ、なんと駄目な妻なのか。
いつまでも子供でしか居られず、他の武将の妻のように夫を包んでやることも出来ない。
槍も持てず、共に走ることも出来ず、癒すことも出来ず、何も出来ない。
一体どうして自分はこの人の横に居るのだろう。


幸村様が、ぐいと杯を煽る。
下ろされた空の杯に定められた通りに酒を注ぎながら、所詮酌くらいしか出来ぬのかと自嘲した。

この人と同じ場所に居たいと思い嫁いで来た。
けれど、戦に生きるこの人と一緒に居ることなんて出来やしないのだ。
戦場に付いて行きたくとも行けぬから、ならば行くなと心が悲鳴を上げる。そんなこと、出来るわけが無いとわかっているのに。





じ、と何かが焦げる音がした。火の中に虫でも入ったのだろうか。
静寂の夜、其れ以外に聞こえるのは灯の燃える音と、幸村様の息遣いだけだ。


「後悔しておるか」


何が、とは聞かない。
固く口を閉ざし、開いた杯に冷たい酒を注ぎ入れる。


「俺は、戦人だ。戦うことこそが俺の役目であり生きる意味だ」
「はい」
「この命は、武田の未来のため、お館様の望む天下の為に在る」
「はい」
「其の為に生きて、其の為に死ぬ。それがこの真田幸村の望みだ」
「…はい」


喉が詰まって声が震えた。出来ればこの震えが気付かれていなければいい、と願いながらもただひたすらに銚子を傾ける。
知っている。百も承知だ。
このひとの命は、自分のものではない。自分のものになど、なりはしない。
彼の命は、賭けるべきものに、そうすべくして捧げられる。入り込む余地など、


「だがな、


幸村様の温かい手が、銚子を持つ手に触れてきた。
から奪われた朱塗りの銚子と、先程まで幸村様が持っていた杯が、灯の届かぬ影へと寄せられる。
代わりに、空いた両の手が、幸村様の大きく力強い手に握られた。


「俺の心はそなたのものだ」
「え?」
「この身は呉れてはやれぬ。この命もには遣れぬ」
「…幸村様」
「だが、俺の心だけは欠片も残さずのものだ」


の身も命も名も、全て貰っておいて、俺がそなたに遣れるものといえばそれだけだ。
それしかやれぬ。許せ。

幸村様の声が、低く優しく響いて、慈しむようにの手を撫でる。
じわりじわりと幸村様の言葉が染みて、とうとう涙が決壊した。
ぼろぼろと落ちる涙を隠すこともできず、みっともないと思いながらも止める術が無い。


「わたしの、ものですか」
「そなたのものだ」
「ならば其れで、十分です…」


握られた手に、縋りつくように額を寄せる。
先程まで内を荒らしていた怒りが凪いで、代わりにもっと苦しい想いが沸きあがってきた。
怒りよりも悔しさよりも強くを苛むその感情は、いつだって狂おしいほどに理性を蝕む。


「俺の心の、帰る場所になってくれるか」
「はい…っ」
「すまんな」


呟かれた謝罪に、必死になって首を振る。
涙が散ったが気にもしていられない。
幸村様の腕が、優しく背を包んでくれたのを感じた。
洟をすすりながら、夜色の羽織にしがみ付く。
息を吸い込めば、慣れた幸村様のにおいがした。


土に塗れる具足と、白い足とは共には並べない。
刃を握る篭手と、脆弱なる手とは繋げない。
命も覚悟も彼方に在る男、それと連れ添う女たちがそれでも彼らの家に在り続けるのは心の寄る辺となるためなのか。
まだ若いには分からない。
けれど愛しい男の心が、此処へ帰って来たいと言うのならば。

(きっとそれが、わたしの役目)




心ばかりは隣に並んで




は本当は、天下一の欲張り者なのです。そのに、最後には心しか呉れぬというのですから、せめてもの我儘は聞いて頂かねば」
「なんだ」
「命までもとは申しません。ただ今だけは、幸村様の其の身もに」
「…ならば、そう致そう」





(090212)