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手が冷たい、と姫が我儘を言った。俺は其れに対し、ただ一言「然様でございますか」とだけ返した。姫はそれが不満だったようで、少々むっとした顔をしてこちらを睨み、もう一度「手が冷たい」と訴えた。姫が何を求めていたのか分かってはいたが、俺は如何することも出来ずに姫の視線から必死に逃げた。 次の日、姫が今度は俺と共に城下へ出たいと言った。なりませぬ、と首を振ったが、姫は俺の着物の袖を掴んでぐいぐいと引っ張る。襟元が乱れ、開いた袷に冷たい風が流れ込んだ。寒い。思わず漏れた小さな声に姫が顔を上げ、そうして、急に顔を赤くして俯いてしまった。俯く姫のうなじを、一房の黒髪が流れる。そこから現れた真白い頸が目に焼きついた。 雪がちらついた日、姫が姿を隠した。侍女達は大慌てで探していたが、俺にはすぐに分かった。姫は塗籠のなかで蹲っていた。皆が探しておりますぞ。そう声をかけたが、姫は微動だにもしない。呼んでも応えぬ姫に、流石に不安になってその顔を覗きこむ。姫は泣いていた。 如何した、と焦る声は思ったよりも大きかった。姫はひとこと、お嫁になんて行きたくない、と呟いてまた顔を伏せた。細い手首が、暗闇の中でぼうと浮き上がって見えた。 久方振りに晴れた日、姫が縁側で船を漕いでいた。もうすぐ嫁がれる身だというのに、このようなところで転寝など無防備に過ぎる。そう思い、姫を起こそうと手を伸ばした。 幸村。 薄く開いた姫の口から、己の名が漏れた。俺は言葉を失った。姫はまだ眠っているようだ。その頬に涙の流れた跡があって、胸の内を引っ掻かれたような痛みが走った。伸ばした手は、姫に届く前に宙へ落ちた。 灰色の空が垂れ込めた日、姫が俺に打ち掛けを見せてきた。見事な打ち掛けですな。そう言うと、姫は笑って「綺麗でしょ」と言った。打ち掛けは美しかった。きっと、それを纏った姫はもっと美しいに違いない。だが、俺の心の中は嵐のようだった。あれを纏ったとき、姫は俺の傍から永遠に失われる。あんな打ち掛けは燃えて炭になってしまえばいいと、そう思いながら、きっと姫に良くお似合いでしょう、と微笑んだ。 月の丸い夜、姫が部屋へやってきた。月明かりに浮かんだ白い湯帷子が、目に痛い程だった。「このような時分に、如何なされたのです」問うと、姫はただ俯いて、小さな手を膝の上で硬く握り締めた。その身体が震えている。湯帷子は薄く、姫の細い線を際立たせる。知らず、俺は唾を飲んだ。 幸村、あのね…姫が口を開く。俺は、ほとんど反射のように姫の口を手で塞いだ。「それ以上は言ってはなりませぬ」低くそう告げると、姫の顔がほろりと崩れた。姫は声も出さずに泣いた。俺は、槍で心の臓を貫かれたような気分になった。 斬るような寒い朝、姫が俺の背に寄り添った。あ、と思ったときにはもう遅く、姫は俺の背に顔を埋めたまま「幸村のことが、好き」と言った。とうとう言ってしまった。それは決して言ってはならない言葉であったのに。背に伝わる温度に、頭が割れてしまいそうだった。俺は何も言うことが出来ず、木偶のように立ち尽くした。姫は一言、本当に好きなの、と言って、俺から離れていった。 月が半分に割れた夜、また姫が部屋を訪れた。姫は悲しそうに、最後だから、と言った。喉が渇いて、息をするのも辛かった。舌は口の中に張り付き、心の臓がどんどんと内を叩く。姫が泣きそうな声で俺の名前を呼んだ。 そして俺はとうとう、切れてしまった。 つらまえた姫の手首は細く頼りなく、強く握れば折れてしまいそうだった。抱き寄せた身体は、俺が思っていたよりもずっと華奢でしかし柔らかかった。髪からは香の匂い、頸からはほのかに甘い匂いがした。幸村、と姫が泣きながら俺に縋る。喉が詰まって胸が溢れて、俺もついに言ってはならぬことを口にした。 お慕いしておりました。どうか、どうかこの幸村のものになってくだされ。 後生大事にする、手を離さぬと誓うから、と叶えられもせぬ嘘で姫を乞うた。言うつもりはなかったのに、言っては戻れぬと分かっていたのに。姫が嬉しいと泣いた。姫の背を宥めながら、俺は後悔なのか幸福なのか分からぬ気持ちが胸の内で暴れるのを感じていた。 これは罪だ。 そう分かっていたのに。 (090117) |